曾禰益
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曾禰 益(そね えき、1903年(明治36年)12月5日 - 1980年(昭和55年)4月25日)は、外交官、政治家。元参議院議員(3期)、衆議院議員(3期)、民社党書記長(初代)。
経歴[編集]
東京生まれ。建築家の曾禰達蔵の次男。東京府立第一中学校、第一高等学校卒[1]。1926年東京帝国大学法学部政治学科卒。外務省に入り、フランス、中国に駐在。同省通商局第三課長、政務局第二課長、政務局第一課長などを歴任。敗戦後は終戦連絡中央事務局政治部長としてGHQとの折衝にあたったが、鳩山一郎の公職追放問題(いわゆるY項パージ)で吉田茂外相と衝突し、1946年福岡事務局に左遷[2]。1947年片山哲内閣の官房次長、1948年連絡調整中央事務局長官。1949年日本社会党に入党、1950年第2回参議院議員通常選挙に神奈川県選挙区から立候補し初当選。社会党右派に所属。西尾末廣に傾倒し[1]、1960年民主社会党(のちの民社党)の結成に参加、初代書記長。1962年10月書記長を退任、外交委員長。1967年1月の第31回総選挙に神奈川2区から立候補し、衆議院議員に転身。同年5月に西尾末廣委員長が6月の党大会で委員長を退任することを表明。西尾自身は曾禰を後任に考えていたが、党内外の声で西村栄一が二代目委員長に選出された[1]。1970年4月の党大会で西村栄一と[3]、1971年8月の臨時大会で春日一幸と委員長の座を争ったが[1]、いずれも敗北した。1972年の第33回総選挙で落選、1976年の第34回総選挙で返り咲き当選。1979年引退。
親族[編集]
祖父は枢密顧問官や韓国統監を務めた曾禰荒助。父は建築家の曾禰達蔵。兄は物理学者の曾禰武。妻は五島慶太の娘で、五島昇は義兄弟。
著書[編集]
- 『私のメモアール――霞が関から永田町へ』(日刊工業新聞社、1974年)