松下正寿
松下 正寿(まつした まさとし、1901年4月14日 - 1986年12月24日)は、国際法学者、弁護士、政治家。立教大学総長、参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議初代議長、民社法曹協会初代会長、世界平和教授アカデミー初代会長、財団法人富士社会教育センター理事長などを務めた[1]。
経歴[編集]
京都府京都市生まれ[2]。青森県八戸市番町出身[3]。「西洋産婆」と呼ばれた亀徳しづ(旧姓:松下)の二男で[4]、のち松下家の養子になった[5]。祖父の松下一郎が日本聖公会の牧師だったこともあり、クリスチャンの一家に育つ。八戸尋常小学校(現・八戸市立吹上小学校)、青森県立八戸中学校(現・青森県立八戸高等学校)を経て[3]、1922年立教大学商学部卒業[2]。アメリカに8年間留学し、ミネソタ大学[3]、カールトン大学、コロンビア大学、ジョンズ・ホプキンス大学で学ぶ[6]。1929年6月コロンビア大学より哲学博士号を取得[3][5]。
1929年9月立教大学教授。1943年5月立教大学を退職[5]。敗戦を挟んで日本外政協会調査局長を務め、極東国際軍事裁判(東京裁判)では東条英機の副弁護人を務めた[3]。その後、『米州国際法の基礎理論』がもとで公職追放となり[2]、弁護士を開業[3]。津田塾大学教授、中央大学法科・同大学院講師を経て[6]、1955年6月立教学院院長・立教大学総長に就任[5]。同年に米国聖公会がアジアへの原子炉寄贈を決定したことを知ると、立教大学への原子炉誘致に積極的に取り組んだ。1957年に立教大学原子力研究所が設立され、翌年に米国聖公会が立教大学への原子炉の寄贈を正式に決定した[7]。1957年にクリスマス島の水爆実験中止を要請するため、岸信介首相の特使としてイギリスに派遣された[3]。1961年11月核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長に就任[8]。1967年東京都知事選挙に立候補するため立教学院院長・立教大学総長を任期途中で辞任[5]。
1967年の東京都知事選挙に自民党・民社党の推薦で立候補したが、社会党・共産党推薦の美濃部亮吉に敗れ次点で落選した(得票数は美濃部が220万389、松下が206万3752)。1968年7月の第8回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から民社党公認で立候補し、初当選。1972年8月民社法曹協会初代会長に就任[9]。1974年7月の第10回参議院議員通常選挙には立候補せず、1期で議員を引退。同年に勲二等旭日重光章を受章[2]。同年9月に統一協会系の世界平和教授アカデミー初代会長に就任[10]。1975年に民社党推薦で再び東京都知事選挙に立候補したが、社会党・共産党・公明党推薦の美濃部亮吉、自民党推薦の石原慎太郎に敗れ3位で落選した。
著書に『米國戰爭權論』(有斐閣、1940年)、『大東亞國際法の諸問題』(日本法理研究會、1942年)、『米洲廣域國際法の基礎理念』(1942年)、『萬邦共榮論』(文松堂、1945年)、『アメリカ憲法解説』(國際聯合研究會、1946年)、『明日をひらく思考』(東都書房、1967年)、『野に叫ぶ声』(教育出版センター、1980年)、『聖徳太子 政治家として』(ライフ出版、1982年)、『文鮮明 人と思想』(善本社、1984年)などがある。
兄は亀徳正臣(青山学院大学教授)、息子は松下満雄(東京大学名誉教授)[3]。
出典[編集]
- ↑ 石上大和『民社党――中道連合の旗を振る「責任政党」』教育社、1978年、83頁
- ↑ a b c d 新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説 コトバンク
- ↑ a b c d e f g h 松下 正寿 八戸市
- ↑ 青森県立郷土館だより 通巻137号 2006年7月1日 Vol.37 No.2(PDF) 青森県
- ↑ a b c d e 鈴木勇一郎「立教大学総長としての松下正寿」『立教学院史研究』10巻、2013年
- ↑ a b 『立教大学新聞』第162号、1958年12月20日付
- ↑ 鈴木勇一郎「立教大学原子力研究所の設立とウィリアム・G・ポラード」『立教学院史研究』11巻、2014年
- ↑ 年表(PDF) KAKKINホームページ
- ↑ 伊藤郁男、黒沢博道編『民社党の光と影――元党本部書記局員による民社党研究論集』富士社会教育センター、2008年、224頁
- ↑ 沿革 世界平和教授アカデミー
外部リンク[編集]
- 松下正寿(まつした まさとし)とは(コトバンク)
- 原子力研究所(立教大学)
- 松下正寿著「文鮮明・人と思想」(超人類ネット)
- 統一運動・統一教会に賛同する人々(日本)(超人類ネット)
- 篠原初枝「国際連盟の遺産と戦後日本」『アジア太平洋討究』20巻、2013年(CiNii 論文)