茶の湯
茶の湯(ちゃのゆ)は、抹茶を使って作る茶、及びそれを作る事である。本項目では抹茶についても全て述べる。
概要[編集]
茶の湯に使われる抹茶は緑茶の一種である。碾茶を粉末にしたもの、またそれに湯を加え撹拌した飲料である。茶道で飲用として用いられるほか、和菓子、洋菓子、料理の素材として広く用いられる。
抹茶の定義[編集]
日本茶業中央会の定める抹茶の定義は「覆い下で栽培された生葉を揉まないで乾燥した碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの」となっている。そして、「『茶臼で挽いて』という表現は粉砕の代表例を示したもので、他の方法で微粉末にしても「抹茶」と言える」としており、粉砕機で挽いたものも抹茶と認めている。この定義に当てはまるものが食品表示で「抹茶」とされているものだが、粉末茶の中には定義に関係なく「加工用抹茶」「工業用抹茶」「食品用抹茶」という名称で流通しているものがある。碾茶の生産量と抹茶の流通量を比較すると、世間で流通している抹茶の3分の2は本来の意味の抹茶ではないと見られている[1]。
チャノキの葉(茶の葉)を蒸してから乾燥させた碾茶を茶臼でひいたものである。江戸時代までは挽きたてのものを飲用していた[2]。現代でも茶道では前日などに茶臼でひいたものを供する。家庭用にはすでに粉末化されプラスチックのフィルム袋に密閉されたもの、もしくは金属製の筒にいれられたものが流通している。変質を避けるため開封後は密閉容器に入れ冷暗所に保存する。
種類は、高級品や一般向け製品の違いを別にすると単一であるが、味はその年の茶畑や茶葉の仕上がりによって異なるため、従来のものと味わいを統一するために茶舖において様々な畑の茶葉を組み合わせて配合する(これを合組(ごうぐみ)という)。濃茶用、薄茶用(いずれも後述)のもととなる茶葉の配合は茶舖により異なり、合組される際には茶畑毎に分かれている。甘みがより強く、渋み・苦味のより少ないものが良いとされ、高価である。一般に高級なものは濃茶に用いられるが、もちろん薄茶に用いてもよい。
爽やかな苦味は砂糖の甘味と良く馴染み風味が際立つため、菓子の風味付けにも好まれる。和菓子はもちろん、洋菓子にも用いられ、抹茶味のアイスクリームは日本では定番風味の一つともなっている。日本アイスクリーム協会の調査では1999年(平成11年)から2009年(平成21年)まで、バニラ、チョコレートに次いで第3位の地位を占めている[3]。
飲料としての抹茶[編集]
黒味を帯びた濃緑色の濃茶(こいちゃ)と鮮やかな青緑色の薄茶(うすちゃ)がある。茶道では、濃茶は茶杓に山3杯を1人分として、たっぷりの抹茶に少量の湯を注ぎ、茶筅で練ったものを供する。薄茶は茶杓1杯半を1人分として、柄杓半杯の湯を入れ茶筅で撹拌する。茶道では茶を「点(た)てる」(点茶=てんちゃ)というが、濃茶は特に「練る」という。現在の茶道では、濃茶を「主」、薄茶を「副(そえ)」「略式」と捉えている。 茶筅で撹拌する際に、流派によって点てかたが異なる。三千家ではそれぞれ、たっぷりと泡を立てるのが裏千家、うっすらと泡立てるのが表千家、もっとも泡が少ないのが武者小路千家といわれる。
現在では一般的な飲料としては煎茶(緑茶飲料を含む)の方が需要が多いものの、地域によっては農作業の間の休憩などに抹茶を飲用する習慣が残されている。
日本の製法[編集]
原料となる碾茶(てんちゃ)に用いる茶は葭簀(よしず)と藁(わら)を用いて直射日光を遮り「簀下十日、藁下十日」被覆栽培する(玉露と同様の栽培法)。これにより茶葉は薄くなり、うまみやコクが増す。1回目に収穫したものを1番茶、2回目に収穫したものを2番茶とし、若葉をていねいに手で摘む他、機械で刈る方法も存在している。刈り取った茶葉はその日のうちに蒸した後、揉捻(じゅうねん)を行わずに乾燥させる。もまないところが煎茶や玉露との大きな相違点である。
この碾茶を刻み、葉柄、葉脈などを取り除いて真の葉の部分だけにし、粉末にする。45℃前後の一定温度で乾燥させ、茶葉に変化の少ない石臼(茶臼)で挽く。この工程は11月までに行う。12月以降の冬場は味が変わってしまうからである。
茶銘とお詰め[編集]
茶にはそれぞれ「初昔(はつむかし)」、「後昔(あとむかし)」、「千代昔」、「葵の白」、「青海白」などの銘がつけられる。茶人が茶銘に趣向を凝らして楽しむようになったのは江戸時代に入ってからだと考えられている。茶畑は「茶園」、製茶業者は「茶師(ちゃし)」と呼ばれる。茶師はもともと茶葉を茶壷などに詰めて納めたところから「お詰め」とも呼ばれる。
「昔」と「白」[編集]
茶銘の末尾についている「昔」、「白」という表現は、現代では濃茶と薄茶の区別として用いられる。しかし、本来は昔だけであり、後になって昔に対して白という表現が用いられた。昔という字は、最上級の茶の初摘みを行うといわれる3月20日 (旧暦)(廿日)の「廿(にじゅう)」と「日」を組み合わせたものとの説がある。
白という表現は、三代将軍家光の時代に見られ、当時の大名茶人が盛んに「茶を白く」と宇治茶師に求めたことがきっかけといわれる。当時の「白く」という表現が何を意味していたかは不明である。古田織部は青茶を、小堀遠州は白い茶を好んだという記録が遺されている。宇治では、白と青の違いは茶葉の蒸し加減によるとされている。おそらくは、嗜好の移り変わりを示すものと考えられる。 また業界の一説では、茶の製茶過程において特に初摘みの新芽に白い産毛が入ったものが多く見られることがあり、そのような貴重な新芽を用いたお茶はふわふわとした白い産毛が入るお茶となることから、その茶を「白」と呼んでいたのではないかとしている。
銀座平野園(創業明治16年・東京銀座)には『御園の白』という銘の濃茶が明治時代から今日に至り存在する。当時の店主、草野話一は明治天皇に献上する抹茶の銘を考えていた際、濃茶に用いる上質な茶葉を臼で挽くときに臼の周囲に特有の白い輪が広がることから茶銘を『御園の白』と名付けた。 また明治天皇が病を患った際、話一は銀座の地にて自ら臼を挽いて製造した『御園の白』から抹茶のアイスクリームを製造して献上した。
成分と効能[編集]
茶には眠気の除去や利尿作用などさまざまな効能があるが、特に抹茶は茶葉を粉にして飲むため、葉に含まれる栄養素をそのまま摂取することができる。抹茶に含まれる主な成分は次のとおり。
賞味方法[編集]
飲む[編集]
- 濃茶
- 亭主を中心とした少人数の茶事ではひとつの椀の濃茶を主客より順にまわし飲む。菓子は生菓子で、「主菓子」(おもがし)と呼ばれるもの。
- 薄茶
- 「おうす」ともいう。大寄せの茶会や禅寺のもてなしには、一人一椀ずつの薄茶を点てる。茶事の折には薄茶の前に「干菓子」(ひがし)を出すが、濃茶を出さない茶会やもてなしでは生菓子を出すこともある。
- グリーンティー
- 70年以上の歴史をもつ商品で、抹茶とグラニュー糖から成り、湯や牛乳を入れて撹拌して飲む。玉露園が日本で初めて販売した。昭和40年代同社がお茶屋(茶葉販売店)の店頭にドリンクサーバー(ドリンクチラー)を数多く設置し、無料の試供品を提供したことから広く知られるようになり[4]、今では玉露園以外の多くのメーカーも同様の製品を販売している。「薄茶糖」(うすちゃとう)や「抹茶ミルク」といった名前で呼ばれることもある。甘く口当たりが良いので、子どもでも無理なく飲める。登場当初は冷やす飲み方のみであったが、近年、温めた牛乳を用いた飲み方も考案され(「抹茶ラテ」などと呼ばれる)、喫茶店などで提供されるようになった。
食べる[編集]
前述の通り抹茶は他の茶と異なり茶葉そのものも食す[注 1]ことから、料理の素材などとしても広く用いられる。また、前述のとおり砂糖ともよく合うことから菓子にも用いられる。代表的なものとして以下があげられる。
- 和菓子
- カステラ、菓子パン、クッキーなどの焼き菓子
- かき氷、アイスクリーム、ソフトクリームなどの冷菓、氷菓
- チョコレート、キャンデーなどの洋菓子へ和の風味として。
- プリン、パフェなどのデザート類へ和の風味として
- 天ぷら:食べる際に抹茶と食塩を混ぜたもの(抹茶塩)を用いることがある。また衣に抹茶を加えた抹茶衣の天ぷらも存在する。
また日本陸軍が航空勤務者向けに開発・採用した各種の栄養補助食品の中に「航空元気食」というものがあり、これは緑茶粉末・ビタミンB1等を米粉に練り込み、ゼリー菓子状に成形したものであった。
茶懐石[編集]
茶懐石として言う「茶菓子」や「めし」というものは安土桃山時代に最も発達したと言える。千利休は下記の様に残している。
家はもらぬほど食は飢えぬほどにてたる事候
(家は雨露を凌ぐことができ、食べ物は植えないほどにあれば良い、という意味。)
これは千利休がわび茶の湯における料理についての在り方の「究極」を示した言葉として南方録に収められている、有名な言葉である。利休が生きた安土桃山時代は足利将軍家が好んだ本膳料理のスタイルから、禅師の様に質素かつ人間味あふれる食事方法を取り入れてゆこうと言うことが確立され、茶懐石の基礎が作られた(要するに足利将軍家と禅師の料理を真似たっていうこと)。茶懐石は主に、重箱と盆、四つの皿で構成される。利休百会記より、とある年の元旦朝に行われた茶会で供された茶懐石は、次のとおりである。
一、串鮑。
一、汁、牡蠣。
一、めし。
一、鮒炙りて。
一、桐の重箱、上に浅漬けの香の物、下はご飯をつき。
この時に招いた人物は豊臣秀吉、側近の施薬院全宗、定かでは無いが前田利家も招いたとされる。この時の茶懐石は一汁ニ菜が基本である。料理というものは道具や茶室とは違った生さを伝える。単純に調理法や素材のシンプルさだけを見て、現代の感覚で質素だなと感じることはできない。しかし冒頭の利休の言葉からは、そこには「品数を増やす事や、豪華にするのが大事なのでは無い」というメッセージを汲み取る事ができる。その証拠として、利休と千道安の間にこの様なエピソードがある。雪見の茶会に招かれた利休が道安宅を訪れた時に、茶席が始まるとすぐにスズキと春野菜が出てきたのである。これは茶席をした当時冬だった為季節の食を使っていない道安に対して忠告をしたのである。つまり、利休が言いたい「茶懐石」というのは食器や食の自慢ではなく季節に特化して実に質素にやる事が大切だ、という事である。
歴史[編集]
発祥と平安時代[編集]
元々中国の唐代から宋代にかけて発展したものである。8世紀頃、中国の陸羽が著した『茶経』には茶の効能や用法が詳しく記されており、これは固形茶を粉末にして鍑(現在の茶釜の祖先)で煎じる団茶法であった。
抹茶(中国喫茶史では点茶法(てんちゃほう)と呼んでいる)の発生は、10世紀と考えられている。文献記録は宋時代に集中しており、蔡襄の『茶録』(1064)と徽宗の『大観茶論』(12世紀)などが有名である。これらの文献では龍鳳団茶に代表される高級な団茶を茶碾で粉末にしたものを用いており、団茶から抹茶が発生した経緯をよく表している。この抹茶を入れた碗に湯瓶から湯を注ぎ、茶筅で練るのが宋時代の点茶法であり、京都の建仁寺、鎌倉の円覚寺の四つ頭茶会はこの遺風を伝えている[5]。
日本への輸入[編集]
日本への伝来は平氏全滅から間もない1191年に臨済宗の開祖である栄西が7月に宋から輸入したとされる説と、805年に唐から輸入したとされる説がある(ちなみに一つ目の説の方が有力)。同じく栄西は喫茶養生記を書き、そこには茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれている。1214年(建保2年)には源実朝に「所誉茶徳之書」(茶徳を誉むる所の書)を献上したという[6]。この時代の抹茶は、現在のような、緑色ではなく茶色であった。ちなみにここから「茶色」というのが来ている。源実朝に献上したとの記録もあり、将軍など身分の高い位から武士の社会へと広めた。
室町時代と宇治抹茶の登場[編集]
1338年、足利尊氏により室町幕府を開くと南北朝時代に繁栄した抹茶がさらに繁栄するようになる。室町幕府の中心地となる室町殿は京都中心部にあり、気候的に抹茶を栽培しやすい気候にある。鎌倉時代に受け継がれた将軍への抹茶の献上などが重視された。そこで宇治に抹茶畑を作る計画が整えられたのである(宇治抹茶)。3代将軍の足利義満は、宇治抹茶をさらに繁栄させるために宇治七名園を完成させた(室町幕府管理)。
安土桃山時代、わび茶風茶器と唐物茶器との激突・利休切腹で揺れる茶の世界[編集]
室町時代後期、村田珠光(茶の湯のエジソン的存在)がわび茶の計画を立てた。わび茶はそれまで300年程あった偉い人物への献上など、庶民には口に出せない抹茶を全ての身分階級に楽しめるようにと作り始めた。紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。そして、精神的充足を追究し、わびを求めた。利休は紹鴎の教えをさらに進め、わびの対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。また、当時は茶器の大半が中国・高麗からの輸入品、すなわち唐物であったが、利休は新たに樂茶碗など美濃焼などを中心とした茶道具を創作し、掛物にもわびの精神を反映させた水墨画を選んだ。そして武野紹鴎と千利休が協力し遂に1500年代になり基礎が完成されたのである。わび茶は質素な空間、質素な茶器で茶を点てて、庶民にも楽しむ事ができる様なパラダイスである。しかし戦乱の世、織田信長らの戦国大名は高価な茶器に手を染めるようになった。信長はそれに一番最初に乗ったものである。信長は今井宗久、津田宗及や北向道陳、そして千利休らを信長専属の茶匠にして楽しんだ。本能寺の変以降は豊臣秀吉による政治が行われ、1587年の北野大茶会や1585年正親町天皇を京で迎える為にも茶は使われた。対して利休はわび茶で最前線をいき、妙喜庵内には待庵を造った。これは国宝で、わび茶茶室の中で代表作ともなった。1591年、利休は秀吉に切腹を命じられる。これは茶の世界に大きな影響を与えた。
江戸時代、薄れゆくわび茶の精神と栄える日本茶[編集]
1603年、徳川家康により江戸幕府が開かれた。この江戸幕府の始まりにより庶民の暮らしが変わった。征夷大将軍には茶の湯を中心とした、抹茶製品が引き続き提供されたものの、庶民は1639年の鎖国の完成以降舶来物を中心とした唐物の輸入などが制限された為や身分の高さや百姓など貧困層で抹茶ができるような環境がなかった事で茶の湯はどんどん衰退化が進んだ。収入が得る事ができる町人でも、質素な茶器を扱うわび茶を手にする事は出来なかった。しかし1738年、永谷宗円が今で言う煎茶の作法を完成させた。これは抹茶などに使われる茶葉を蒸したりする、急須で茶碗に注ぐだけで済む事で圧倒的に抹茶よりもコストが低く、さらに簡単にできるのである。初期の物は宇治で収穫された茶葉を使ったために「宇治製法」と呼ばれる。1835年、山本嘉兵衛により玉露が完成させられる。この「山本嘉兵衛」は後に大手玉露茶葉メーカーの山本山に発展する。この玉露などの進出により抹茶は人々の生活から徐々に消えていくのである。
明治時代 そしてその後、抹茶はどこへ行ったか[編集]
士族授産事業などを契機に牧之原台地やシラス大地などの平坦な土地に集団茶園が形成されるようになった。これは現在の静岡茶や鹿児島茶、知覧茶などに相当する。しかし茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、かわりに農民が茶園を継承していくようになる。これは茶の輸出価格の下落や、茶園造成に莫大な費用がかかったことが原因だったとされる。当時の茶葉収穫は負担を背負う傾向にあり、高林謙三による茶葉揉葉機や収穫機の発明で大きな再生を得た。明治中期まで、花形輸出品として発展してきた日本茶も、インド・セイロンなどから来る紅茶の台頭で、輸出は次第に停滞していった。代わりに国内の消費が増え、煎茶は国内向け嗜好飲料に変わっていった。そして抹茶が今の生活にある と言うのは、高校で茶道部が全国で始まった頃である。
銘柄[編集]
上林春松本店[編集]
- 琵琶の白
- 初昔
- 後昔
- 祖母昔
- 聖り昔
- 早積昔
- 瑞鳳
- 松風昔
- 極昔
- 好の白
- ゆずり葉昔
- 万代昔
- 綾の森
- 龍の影
- 松の白
- あおい
- かおる
- 橋立の昔
- 三日月の白
- 吉の森
- 戸内昔
- 小松の白
- 嘉辰の昔
- 五雲の白
- 緑毛の昔
- 双鶴の昔
- 翔雲
- 祥宝
- 華の白
- 爽明の昔
- 好古の白
- 清湍乃白
- 百夜の昔
- 桐原乃白
- 泉の昔
- 初音の昔
- 幸の白
山政小山園[編集]
用具[編集]
茶碗[編集]
茶碗は本来は茶を入れて飲むための碗[7](磁器)。茶の湯に欠かせないものの一つ。抹茶を入れたり茶筅を使ったり茶を使うほぼ全ての工程に茶碗を使う。ただし、現代では広く陶磁器製の碗を指す[7]。なお、英語のcupとの関係については後述。
歴史[編集]
初期の日本の茶碗は栄西による輸入と同じ頃に輸入された中国風茶碗。室町時代は足利義政による東山文化の生成とともに周りに装飾が施される。施されていないものには表、施されているものには裏という分別方法もつくようになった。安土桃山時代には朝鮮から高麗茶碗(朝鮮風茶碗)が輸入されるようになった。
茶道具としての茶碗[編集]
日本の茶の湯では、季節や趣向に応じて様々な茶碗を用いる。愛好者の間では『一楽、二萩、三唐津』などと言われることもあり、それらは産地や由来、その色形の特徴によって、主に以下のように分類される。
青磁器は硬く、逆に楽焼きは軟陶とよばれる。
茶碗の形状は、碗形のものが多いが、筒形や平形、輪形(玉形)、半筒、端反、沓形などがある。また、天目形、井戸形のように茶碗の特徴が形状名になっているものもある。形状から筒茶碗(つつちゃわん)、平茶碗(ひらちゃわん)等と呼ばれる茶碗もある。飲み口が狭く茶が冷めにくい筒茶碗は主に冬向き。逆に広く冷めやすい平茶碗は夏向きと使われる。楽や高麗井戸は格が高いと言われ、濃茶に使われることが多い。茶に合わせて作られた、煎茶碗、抹茶碗と呼ばれる茶碗もある。芸術品、工芸品として取引され、作家名の押し印されたものも多く、個々の茶碗に銘(名前)が付けられたものもある。
中近世の日本では「茶碗」という語は「磁器」を指していた。室町時代、足利将軍に仕えた同朋衆によって書かれた『君台観左右帳記』では唐物茶道具を分類するにあたって「土之物」と「茶碗」とが区別されているが、ここで言う「茶碗」は青磁の碗を指している。一方、「土之物」の部には、磁器以外の、現代でいう「天目茶碗」の類が分類されている。「天目茶碗」という用語は近代以降のもので、『君台観左右帳記』の書かれた時代には単に「天目」と称していた。[8]
名の定義[編集]
「茶碗」と言う名称は、「お茶」に由来するというよりは「China(磁器)」に、直接的に由来していると考えられる。 中国では景徳鎮が東インド会社を通じて、磁器を独占的に輸出していたが、17世紀の初め頃からは内乱によってそれが困難となっている。 しかし、西洋諸国の磁器に対する憧れと需要は依然として強く、東インド会社は、遠く日本の陶器生産地にも磁器を求めて来訪するようになった。
日本では17世紀初期に肥前有田で李参平が磁石(じせき、磁器の原料)を発見し、1610年代から磁器(初期伊万里)を作り始めていた。 これらの日本産の磁器を仕入れるにあたって、東インド会社からは、西洋諸国の趣味趣向に合うように執拗な技術的要求がなされたはずである。そのやり取りの中で西洋人が連呼する「china(中国産の磁器)」という西洋言語は、これまでの「木」や「陶(す)焼き」の器とは違う付加価値の高い「磁器」を指す言葉として陶工や日本側の関係者に受け入れられていったものと推定される。
やがて磁器は、技術の全国的な普及、中国の生産体制の復興によって、輸出よりは国内市場向けの供給が主流となっていった。磁器が庶民に手が届くほどのものとなって、「茶(china)碗」という言葉は原義を意識せず、普通に使用されるようになった。
因みに「おわん」と称する器は次のように、分類することができる。
- 椀
- 木製の器。数千年以上前に遡ることのできる漆塗りの器(Japan)も発見されている。伝統工芸品である。
- 埦、碗
- 素焼きの土器から朝鮮陶工が製作した陶器まで全般を意味する。
- 茶碗
- china(=磁器)の碗を指す。中国発の高級磁器のことである。西洋の熱狂的支持を受けて、後に有田発「伊万里」焼となる。
種類[編集]
磁器は割れやすい材質なので、現代では食堂など業務用にプラスチックや金属製の茶碗も作られている。
茶筅[編集]
茶筅も茶碗と同じく欠かせないものの一つ。これを使わないと茶が温かくならず、美味しくならない。茶碗とは違って、装飾などはない。ほとんどの物が竹製で、外側と内側に穂先がつく。標準での穂先の数は128本。これは実は日本発祥で、栄西が持ってきた物ではない。1400年代頃、入道宗砌が村田珠光と協力して作ったもので、当時としてはとても天才的な発明であった。
茶杓[編集]
抹茶を入れるのに大切なもの。これも珠光が発明した。
抹茶[編集]
歴史節を参照。
棗[編集]
棗は抹茶を保存しておくもの。名の由来は形が果物の方のナツメに似てたから。津田宗及の父である津田宗達が開発した。
茶釜[編集]
茶釜は、茶の湯に使用する茶道具の一種で、茶に使用する湯を沸かすための釜のことである。風炉に用いる茶釜はとくに風炉釜(ふろがま)と呼ぶ。
概要[編集]
分福茶釜で知られるように茶釜は小さなものは直径30cm程度からあり、主に鉄で作られている。祖形の鍑[注 2]が中国から伝わり日本で古くに[注 3]改良され現在の形になった。明菴栄西が廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えた当時の茶は、磚茶と称される茶の葉を餅状にしたものを削ってこの鍑で煮て供した。
この茶の湯釜の発生を大別すると、芦屋釜[注 4]と天明[注 5](九州と東国)の2つの流れに分けられる(同新独習シリーズ『表千家』p.361より)。日本国外でも茶の湯は行なわれている。
新年になり、初めて行う茶の湯を初釜と呼び、「初茶の湯」、「釜始め」、「点初(たてぞめ)」、「初点前(はつてまえ)」ともいう[9]。
茶釜はほとんど炉の上に直接据えて用いるが、天井から下げた鎖(釜鎖)にかけて用いる小ぶりの茶釜も存在する。これを釣り茶釜(つりちゃがま)といい、春先(三月から四月頃)に用いる。
茶釜は他の多くの茶道具とともに鑑賞の対象となる。多く炭手前のとき、炉から上げた状態を正面から客が鑑賞する。客が釜に手を触れることはしない。
茶釜を作る職人を釜師という。
「釜を掛ける」といえば茶会を催すことを意味するように、釜は茶道具の中でも特別な存在である。利休百首にも「釜ひとつあれば茶の湯はなるものをよろづの道具をもつは愚かな」と歌われている。[10]
番外編:分福茶釜[編集]
分福茶釜は、日本中で語り継がれている、タヌキ(あるいはキツネ)が化けた茶釜の昔話(民話)、あるいはおとぎ話[11]、童話[12]。文福茶釜とも表記する。
概説
おとぎ話では、和尚が手放した茶釜(狸の化身で、頭・足・尻尾が生える)が、綱渡りなどの芸をし、これを見世物商売に屑屋が財を築き、茶釜を元の寺(茂林寺)に返還する。
茂林寺は群馬県館林市に実在する寺で、現在も文福茶釜を所蔵する。ただし寺の縁起は、狸の化けた釜とはせず、古狸(貉)の老僧守鶴愛用の「福を分ける」分福茶釜であるとする。千人の僧が集まる法会で茶をたてたが、一昼夜汲み続けても釜の湯はなくならなかったと記される。
狸や狐が茶釜に
語源[編集]
「分福」という名の由来については諸説ある。この茶釜には八つの功徳があり、「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と呼ばれるようになったという説明や[注 6][13]、沸騰する音の擬声語という説がある[14][注 7]。
また「文武火の茶釜」とも表記されるが[17]、文火は弱い火、武火は強い火を指す[12]。同じ語釈は、鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』「
おとぎ話版[編集]
巖谷小波のおとぎ話版『文福茶釜』によって広く人口に膾炙したという評もある[20][22]。その要約は、次のようなものである:
上野国館林の茂林寺で、茶の湯が趣味である和尚さんが茶釜を買って寺に持ち帰る。和尚の居眠り中、茶釜は頭や尻尾、足をはやし、小坊主たちにみつかり騒動となるが最初和尚は信じない。しかし湯を沸かそうと茶釜を炉にかけると[注 8]、足のはえた正体をあらわす。怪しい釜なので出入りの屑屋に売却。その夜、茶釜はみずから不思議な姿をあらわし、狸の化けた茶釜だと正体をあかし、文福茶釜と名乗る[注 9]。狸は、寺での扱いをなじり(火にかけられたり、カンカン言わせて叩かれたり)、屑屋には箱にしまうでもなく丁重に養ってもらいたい、そのかわり軽業、踊りの芸を披露する、ともちかける。屑屋は見世物小屋を立ち上げ、茶釜大夫の曲にあわせた綱渡り芸は人気を博す。一財をなした屑屋は満足し、もうけの半分を布施とするとともに茶釜をもとの茂林寺に返還し、同寺の宝となった[25][20]。
この、茶釜から顔や手足を出した狸の姿や、傘を持って綱渡りをする姿のイメージが、広範にそして甚だしく笑話化されて伝えられてしまっている[26]。
場所(茂林寺)まで指定するのは、これが伝説から純粋な童話になりきっていないひとつの兆候だと志田義秀はしている[27]。
点てかた[編集]
ここでは主な点て方を述べる(表千家)。
下準備[編集]
- 茶碗に80℃ほどの湯を茶碗の半分ぐらいまで入れる。
- 茶筅で湯を120度右縦に回転させ、その次に270度右縦に回転させる。そして横の淵に立て掛け、茶筅を回転させながら見物する。
- 2でやったことを2回繰り返す。
- 4回目は立て掛けた後茶筅を10秒ほど湯の中で振り続ける。
- 湯を捨てる。
- 残った湯を茶巾で拭き、清める。
茶の湯[編集]
- 湯が入った茶碗に茶杓で抹茶を最初に1杯入れた後、その後その1.5倍を入れる。
- 80℃ほどの湯を茶碗の半分まで入れる。
- 茶筅で振る。
- クリーミーな泡になったら出来上がり
客人への振る舞い方[編集]
- まず茶碗を右斜45度置く
- その後右手の拳を床にたて、それを中心に体を茶碗の方向に動かす。
- 茶碗を柄のある方向に回す(裏千家の場合は180度右縦に回転させる)。
- 客人の方向に2でやった事をやる。
- 客人の前に渡し、お辞儀をする
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 中国には、茶葉をそのまま食す料理「龍井蝦仁」がある。
- ↑ 鍑:中国では首がくびれ腹が張り出し、底が丸い、物を煮炊きする口の大きな釜、戦国時代は陶製、漢代には多く青銅製。江戸時代の《和漢三才図会》では鍑は懸釜のこと。茶釜は鑵子と表記、多くは鋳鉄製で,銅製もあった。
- ↑ 釜自体の歴史は『日本書紀』や『堤中納言物語』に記述が見られる事から古代から存在する事がわかるが、日本における湯沸かし釜、すなわち茶釜の歴史は建仁年間(鎌倉初期)とも弘安年間(鎌倉中期)ともされ、明確とはなっておらず、鎌倉末期から室町初期にかけてとみられる。参考・新独習シリーズ『表千家』 千宗員 主婦の友社 7刷1977年(初版1974年) pp.360 - 361
- ↑ 室町時代を全盛期として多数の作品を残している。筑前国蘆屋(現芦屋町。
- ↑ 下野国天明(現佐野市)において造られ、芦屋より100年ほど遅く登場したと伝えられる。
- ↑ 茂林寺の縁起類(『甲子夜話』も含む)に記述[13]。
- ↑ 菊岡沾涼『本朝俗諺志』に「水をさせば五七日がほど湧出て..常よりぶんぶくゝゝと沸りける」とある[15]。
- ↑ 巌谷小波は単に「
爐 ()」としているが、明治時代の別の童話本では「囲炉裏」であり[23]、ちりめん本の挿絵などでも囲炉裏として描かれる[24]。 - ↑ 漣山人版では、寺の段では狸だと一切触れられていないが、ジェームス夫人訳では寺の段階で"badger"であると判明している[24]。
出典[編集]
- ↑ 桑原秀樹『お抹茶のすべて』誠文堂新光社、2015年、ISBN 9784416615300、pp.12-16.
- ↑ 三輪茂雄. “茶道具から消された茶磨(茶臼)” (日本語). 石臼 & 粉体工学 粉体の話はまず高貴な粉から 茶磨(茶臼)の日本史. 2009年8月13日確認。
- ↑ アイスクリーム白書2009Voi.2(日本アイスクリーム協会調べ)。
ただし2009年(平成21年)2月に行われた調査では、新たに調査に加えられるようになった「クッキー&クリーム」に抜かれ一時的に4位となっている→アイスクリーム白書2009Vol.1 - ↑ 串間努. “まぼろし食料品店 第1回「グリーンティ」の巻”. まぼろしチャンネル(初出:毎日新聞). 2014年8月29日確認。
- ↑ 福持昌之. “京都の無形文化財としての建仁寺四頭茶礼”. 大阪観光大学観光学研究所報『観光&ツーリズム』 2020年7月11日閲覧。.
- ↑ 龍粛校注『吾妻鏡』四(岩波文庫、1941年、p.110。現行本はISBN 4003011848)。「所誉茶徳之書」が『喫茶養生記』であったと見られている。
- ↑ a b 日本民具学会 『日本民具辞典』ぎょうせい p.351 1997年
- ↑ 矢部良明編『角川日本陶磁大辞典』(角川書店、2002)「茶碗」の項(該当項目執筆は竹内順一)
- ↑ 『短歌表現辞典 生活・文化編』 飯塚書店編集部編 飯塚書店 2刷2004年(初版1998年) ISBN 978-4-7522-1029-0 p.39
- ↑ http://www.urasenke.or.jp/textb/beginer/dougu.html
- ↑ 巌谷 1908
- ↑ a b 志田 1941、244頁
- ↑ a b 榎本 1994, pp. 138–139.
- ↑ 稲田浩二; 稲田和子 『日本昔話ハンドブック』 三省堂、2001年、139頁 。
- ↑ 「本朝俗諺志」抜粋、
- ↑ 大田南畝 「増補一話一言巻四十一 狸塚」 『蜀山人全集』 5巻 吉川弘文館、1908年、327頁 。
- ↑ 大田南畝『一話一言』(1779–1820年)等[16]
- ↑ 鳥山石燕 『百鬼夜行拾遺(今昔百鬼拾遺) 3巻』中、長野屋勘吉、1805年。
- ↑ Toriyama, Sekien (2017), Japandemonium Illustrated: The Yokai Encyclopedias of Toriyama Sekien, translated by Hiroko Yoda; Matt Alt, Courier Dover Publications, p. 204,
- ↑ a b 榎本 1994, p. 141.
- ↑ Myers, Tim 『The Furry-legged Teapot』 Robert McGuire (画)、M. Cavendish Children、2007年。ISBN 978-0-7614-5295-9。
- ↑ 読売新聞(英語版): "不朽の名声を得た (immortalized)"。童話作家ティム・マイヤーズの序文による[21]。
- ↑ 村井静馬 『文福茶釜』 小森宗次郎、1876年 。
- ↑ a b James 1886.
- ↑ 巌谷 1908「文福茶釜」, 221–237頁
- ↑ 野村純一ほか編 『昔話・伝説小事典』 みずうみ書房、1987年、210頁。ISBN 978-4-8380-3108-5。
- ↑ 志田 1941、242頁
参考文献[編集]
- 榎本千賀 「茂林寺と分福茶釜」 『大妻女子大学紀要 文系』 26号、135-157頁、1994年。 。
- James, Mrs. T. H. 『The Wonderful Tea-Kettle』 Yoshimune Arai (画)、T. Hasegawa〈Japanese Fairy Tale Series〉、1886年。