妙喜庵
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妙喜庵(みょうきあん)とは、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎子字竜光56に存在する寺院である。宗派は臨済宗東福寺派。山号は豊興山。
概要[編集]
室町時代後期の俳諧師・山崎宗鑑が隠棲した草庵が起源で、それを後に春嶽が寺院にしたといわれているが、宗鑑より以前に死去している春嶽が隠棲場所を寺院にできるとは思えず、この説はかなり疑わしい。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれ、その光秀を討つべく中国大返しを断行した羽柴秀吉は、山崎の戦いの際にここを休憩所に充てた。その際に千利休に命じて作らせたのが現在に残る茶室・待庵といわれている。これは愛知県犬山市の如庵や京都市大徳寺竜光院の密庵と共に、国宝三茶室に数えられている。また、書院は宗鑑隠棲の家と言われているが実は確証がない。桁行2間、梁間3間、一重、切妻造、柿葺きで6畳、10畳の2室からなる簡素な建物で、襖絵は狩野永徳の筆によるもの。様式方法などから室町時代末期の建立と見られている。
なお、茶室についても実は利休の作という確証はない。というのも天正10年時点で利休と秀吉にそこまで上下関係は存在していなかったからである。ただ、古くから利休好みの茶室と伝えられ、また利休の詫びの極致を示す茶室としても有名である。茶室はわずか2畳の広さであるが、2畳の中を床前、点前畳、にじり口と3つに分けた天井室床、壁に設けられた下地窓など、わずか2畳の空間を見事に構成しており、利休草庵風茶室の完成型とまでいわれている。昭和26年(1951年)に国宝に指定されている。