宝鏡寺理源

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宝鏡寺 理源(ほうきょうじ りげん、? - 天正元年(1573年)?)とは、戦国時代足利将軍家の一族。三好義継正室

生涯[編集]

父は室町幕府の第12代征夷大将軍足利義晴。母は側室一色晴具の娘。第13代将軍・足利義輝や第15代将軍・足利義昭の異母妹。義輝や義昭の側近として仕えた一色藤長の姪に当たる。

天文18年(1549年)3月8日に宝鏡寺に入寺して尼となり、この際に理源と称したという(『鹿苑日録』)。

永禄12年(1569年)3月27日に還俗し、織田信長媒酌人となって、河内国若江城主の三好義継に嫁いだという(『言継卿記』)。

天正元年(1573年)に足利義昭が信長によって京都から追放された際、義弟に当たる義継は義昭の身柄を若江城に庇護したことから信長の怒りを買い、佐久間信盛に攻められることになる。この際、重臣の若江三人衆らが織田方に寝返ったために三好軍の敗北は決定的となり、義継は理源ら妻子を殺して自らも自害したという(『信長公記』)。