源義経

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源義経(みなもとのよしつね)は、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンと同一人物説のある、平安時代後期の武将である。最高位は従五位下。

生涯[編集]

1159年、河内源氏の本家、源義朝の九男として生まれる。幼名は牛若丸。源頼朝の異母弟で、超能力者阿野全成の同母弟。生まれた年に、平治の乱で源義朝が敗れ、敗死。その後、鞍馬寺に預けられた。京都の五条大橋で、武闘派の僧である武蔵坊弁慶との決闘に勝ち、弁慶を部下につける。1174年、鞍馬寺を抜け出し、藤原秀衡を頼って奥州平泉に向かう。その後しばらく、平泉で過ごしていた。

1180年に源頼朝が鎌倉で打倒平家を掲げて挙兵すると、平泉から鎌倉にはせ参じた。その後、治承・寿永の乱で鎌倉軍の副将となり、摂津一の谷、讃岐屋島、長門壇ノ浦と転戦する。一の谷では、坂が急峻で攻撃ルートになり得ないはずの、伊勢平氏の陣の裏山から奇襲攻撃し(鵯越の逆落とし)、勝利を勝ち取った。壇ノ浦でも、船を上を「八艘飛び」で飛び回るなどの活躍で、伊勢平氏を滅ぼした。

一方で、源氏軍の主力であった鎌倉武士との関係は険悪になっていった。わざわざ東国の領地を離れて西国の戦乱に参加した鎌倉武士にとって、源氏と平家の争いには興味が無く、生活のために武功をあげて恩賞を獲得することにこそ意味があった。そんな中で、源義経は手柄を独り占めしようとしたため、鎌倉武士たちの反感を買った。結局、梶原景時の讒言により、源頼朝は義経討伐を決断。義経は何とか平泉に逃れる。逃れる途中、加賀の安宅関では、加賀守護の富樫泰家をうまく騙して通過。この時の逸話は「勧進帳」として歌舞伎の演目としても有名。

平泉に戻った後、ほどなくして藤原秀衡が死去。子の藤原泰衡が陸奥・出羽の当主となるも、頼朝の揺さぶりに耐えられず、結局義経を討伐することとなった。1189年に自害したというのが通説である。

が、実は生きていて、その後津軽海峡を渡って北海道に逃れた、という説がある。さらには、モンゴルに渡り、チンギス・ハンと名を変えてモンゴル帝国を作り上げた、という説まであるが、真偽は定かではない。

部下[編集]

同世代の人物[編集]

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