オスマン帝国
オスマン帝国(オスマンていこく、1299年 - 1922年/1924年)は、小アジア(現在のトルコ)、パレスチナ、バルカン半島にわたってに存在した専制国家である。オスマン・トルコ、オスマン朝ともいわれる。
概要[編集]
オスマン家が600年以上にわたって支配した帝国で、全盛期にはアフリカ北部から西アジア、ヨーロッパ方面に勢力を拡大した。帝国が急速に拡大した原因は周辺諸国の弱体化以外にも、オスマン帝国が宗教に寛大なこと、税がそれまでの国家よりも安かったことである。しかし、17世紀以後、ロシアの南下政策に圧迫され、周辺諸国の民族運動による独立、帝国内部の権力争いによって弱体化し、第一次世界大戦後にトルコ革命により王朝は滅亡。オスマン家はトルコ国外に亡命した。
歴史[編集]
建国・拡大[編集]
アナトリアすなわち小アジアでは12世紀頃にルーム・セルジューク朝の勢力が衰退し、それによって国内には臣下の諸侯が自立する事態となる。オスマン家もその諸侯の中の一人で、1299年にオスマン1世が小アジア西北部に勢力を確立して王位に即位したのが、オスマン帝国の興りとされている。
この頃、東ローマ帝国は十字軍の侵攻と内紛で衰退していたので、オスマン帝国はそれにつけこんでたびたびコンスタンティノポリスを包囲したりして、帝国の領土を奪っていた。これに対してヨーロッパ諸国も危機感を強めて1396年にハンガリー王国を中心にした欧州諸国連合軍をニコポリスの戦いで粉砕してその勢威を示すと、当時のオスマン皇帝・バヤズィト1世は逆にハンガリーを領土とした。
ところがこの頃、中央アジアから興ったティムール帝国のティムールが小アジアに進出。バヤズィトはこれに対してティムールと敵対するもアンカラの戦いで大敗した上に捕虜となり、さらにその直後に死去してしまう事態となる。オスマン朝はこれにより一時的に没落。残された皇族が争った末にバヤズィト1世の子・メフメト1世により再興を果たした。そして1453年にはメフメト2世により、遂に東ローマ帝国を滅ぼし、後にコンスタンティノポリス(イスタンブール)を首都とした。
全盛期[編集]
セリム1世の代になると、オスマン帝国はサファーヴィー朝やマムルーク朝に勝利してシリア、エジプト、パレスチナなどを併合。さらにアッバース朝のムタワッキル3世を保護する名目で引き取るとカリフの地位も手に入れるなど、オスマン帝国の皇帝はカリフの地位も兼ねる立場になった(スルタン=カリフ制)。つまり、イスラムの政治上と宗教上のトップに立ったのである。
セリム1世の子・スレイマン1世の時代には国内で反乱が起こるが瞬く間に鎮圧すると、ハンガリー方面に進出して勢力を拡大。さらにウィーンまで進出して同地を包囲するまでに至るが、この包囲には失敗した。以後、スレイマンは生涯の間に13回に及ぶ遠征を行なって中央アジアからヨーロッパ、アフリカに及ぶ大帝国を築き上げた。
東西貿易を通じて首都イスタンブールに富を集め、オスマン帝国は全盛期を迎えた。東西交易路を全て支配下に入れ、貿易に高い関税をかけたことが、スペイン、ポルトガルの大航海時代の始まりとなった。
衰退[編集]
スレイマン1世の死後、この帝国では皇帝をめぐっての内紛がたびたび起きた。その上で即位した皇帝も無能な者が多く、常に時の実力者の神輿として担がれる者が多かった。皇帝は飾りのような立場になり、ハーレムに引き篭もって国政を顧みなくなった。また、スレイマン1世の時代に行なわれた多くの遠征で領土は拡大したが、そのために財政的には苦しくなっていたのに、それ以降の皇帝が遊興にふけったのでかえって財政難に拍車がかかった。おまけに、それまで活躍していた皇帝の直属軍であるイェニチェリも皇帝の堕落と比例して堕落するようになって弱体化した。
帝国の弱体化が表面化したのが1571年のレパントの海戦である。それに加えて帝国の皇位をめぐる内争も激しくなり、オスマン2世、イブラヒムらは殺害され、メフメト4世、ムスタファ2世などは退位を強制された。一時期は皇帝とそれを支える重臣の改革があって立ち直りもした時期もあったが、18世紀になるとロシア帝国の南下が始まった。保護国にしていたクリミア・ハン国を併合され、クリミア戦争では、イギリスとフランスとの同盟により一時的にロシア帝国の南下を食い止めることはできたが、戦後再びロシア帝国の圧迫を受けた。
1876年には、ロシア南下対抗策でオスマン帝国憲法が発布された。大日本帝国憲法より早い発布だったが、露土戦争の敗北により1878年に執行停止した。
民族運動[編集]
ギリシア独立戦争やエジプト総督ムハンマド・アリーの謀反により、帝国の領土は縮小していった。クリミア戦争で一時ロシアを退けたものの、1878年にはブルガリアも独立した。
帝国の近代化が必要であると感じた皇帝や重臣は、軍の近代化を推し進めるが、その改革の中でやはり政争が起こり実現には至らなかった。ロシアなどに押された帝国は「瀕死の半病人」の状態で、西アジアの小国にまで衰退。その一方で、1908年に30年間執行停止中だったオスマン帝国憲法の復活を企図する青年トルコ人革命が起こった。
滅亡[編集]
第一次バルカン戦争、第二次バルカン戦争に巻き込まれ、1914年に勃発した第1次世界大戦では、オスマン帝国は同盟国側として参戦。しかし1918年の敗戦に伴ってその国土は連合軍に支配され、セーブル条約によってオスマン帝国の領土は分割の危機に晒された[1]。
このような中で大戦中に連合軍のガリポリ上陸を阻止し、国民的英雄となった陸軍将校のムスタファ・ケマル・パシャ率いる革命軍は連合軍を各地で破り、アンカラに新政権を樹立すると、1922年にトルコ革命によって帝政の廃止を宣言。メフメト6世は廃帝となってマルタに亡命し、ここに623年続いた帝国は滅亡した。
但し、これはスルタン制を廃止した政治的滅亡であり、アブデュルメジト2世がなおもカリフとして擁立された。これはトルコ革命による親帝政派による処置であり、革命派も革命による混乱の中で内争を避けたかったので、とりあえず象徴的な立場すなわち宗教的なカリフの立場のみは認めた。
2年後の1924年、トルコ共和国の権力がほぼ固まると、アブデュルメジト2世はトルコから追放され、カリフの称号も廃止された。こうして、オスマン朝は完全に滅亡となった。
オスマン帝国の歴代君主[編集]
帝位請求者[編集]
- (37) アブデュルメジト2世、1922年 - 1944年
- 先代(最後の皇帝)メフメト6世の従弟
32代アブデュルアズィズ1世の子 - 「スルタン」ではないが「カリフ」の称号は継承(1922-1924年)。1924年にカリフ制そのものが廃止され退位[2]。
- 先代(最後の皇帝)メフメト6世の従弟
- (38) アフメト4世、1944年 - 1954年
- 33代ムラト5世の孫
- (39) オスマン4世、1954年 - 1973年
- 先代の弟
33代ムラト5世の孫
- 先代の弟
- (40) アブデュルアズィズ2世、1973年 - 1977年
- 32代アブデュルアズィズの孫
(37) アブデュルメジト2世の甥
- 32代アブデュルアズィズの孫
- (41) アリー1世、1977年 - 1983年
- (38) アフメト4世の子
- (42) オルハン2世、1983年 - 1994年
- 34代アブデュルハミト2世の孫
- (43) エルトゥールル2世、1994年 - 2009年
- 先代の従兄
34代アブデュルハミト2世の孫
- 先代の従兄
- (44) バヤズィト3世、2009年 - 2017年
- 31代アブデュルメジト1世の曾孫
36代(最後の皇帝)メフメト6世の兄メフメト・ブルハネッティン・エフェンディの孫
- 31代アブデュルメジト1世の曾孫
- (45) アリー2世、2017年 - 現在
- 34代アブデュルハミト2世の曾孫
かつて領有した国[編集]
国の全域、または大部分がオスマン帝国領になったことのある国の一覧。
- トルコ
- ギリシャ
- キプロス
- アルバニア
- セルビア
- ボスニア・ヘルツェゴビナ
- ハンガリー
- ブルガリア
- マケドニア
- ルーマニア
- モルドバ
- イラク
- シリア
- ヨルダン
- レバノン
- パレスチナ
- イスラエル
- エジプト
- リビア
- チュニジア
- アルジェリア
国旗[編集]
「三日月と星」の伝承から、三日月と星の組み合わせの国旗が用いられた。スイスを中心とした赤十字の紋章に反発して、十字の代わりに国旗に因む赤い三日月を用いた「赤新月社」をイスラム国家で最初に創設した。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
外部リンク[編集]
- Miniatures and pictures of Ottomans (politic, social life and military) -->
- Osmanlı Medeniyeti - オスマン帝国
- TheOttomans.org(英語)
- En hommage a SPI SPIへのオマージュ -「Ottomans:The Rise of the Turkish Empire, 1453 - 1571の日本語版ルール」
- オスマン帝国の解体とヨーロッパ - 藤波伸嘉