日本大学

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日本大学(にほんだいがく、英: Nihon University)は、東京都千代田区九段南に本部がある私立総合大学である。略称は「日大」(にちだい)。学生数が多いことから、マンモス大学と言われる。各学部の独立採算制を特徴とする。日本を代表する私学[1]であり卒業生総数約116万人である。2019年10月4日に創立130周年を迎えた。
2022年7月、前々代理事長の逮捕後の混乱を収拾するため、藝術学部OG作家林真理子が第14代理事長に就任。

概要[編集]

日本大学は1889年明治22年)に創立された日本法律学校が前身である。 創立時に中心的な役割を果したのが、日本初の司法大臣であった山田顕義であった。山田顕義は、当事の法学教育は欧米法が主流であり、日本の歴史文化から乖離した知識を教えているため、現実に即した日本法学の研究教育が課題と考えていた。山田顕義は宮崎道三郎らが自分と同じ趣旨の学校設立計画を進めていることを知り、彼らを全面的に支援することとした。校舎は顕義が所長をしていた皇典講究所を借用し、1889年(明治22年)10月4日、日本大学の前身である日本法律学校が誕生した。日本大学では、創立に関与した宮崎道三郎金子堅太郎などの若き法律学者など11名を創立者とし、彼らを支援した司法大臣・山田顕義を学祖とする。

1893年(明治26年)には司法省の指定学校となる。1898年(明治31年)高等官・判事検事・弁護士受験合格者を対象として高度な法学研究を実施するため「高等専攻科」を設置する。卒業生には「日本法律学士」の称号が与えられた。1903年(明治36年)大学組織への移行を進めて、学則改正の認可を文部大臣に申請。校名を「日本法律学校」から「日本大学」と改称した。本科は「専門部」、高等師範科は「高等師範部」、高等予備科は「大学予科」と改称された。1904年(明治37年)大学部に「政治科・商科(現・経済学部と商学部)」を設置し、専門学校令により大学となった。1906年(明治39年)大学では初の「学科目制」履修制度を採用した。

1920年大正9年)日本大学は「大学令」による私立大学の設立を申請・認可され、新しい「日本大学」が誕生した。1920年(大正9年)法文学部「法律科」「政治科」「宗教科」「社会科」、商学部「商科(1923年(大正12年)に商業学科に名称変更)」が設置された。1920年(大正9年)「高等工学校(現・理工学部)」を設置した。設置当初は「土木科」「建築科」の2学科から翌年の大正10年には「機械科」、大正11年には「専攻部」を設置した。1920年(大正9年)専門部、高等師範部に女子の入学を認めた。1921年(大正10年)美学科(現・芸術学部)」を設置する。1925年(大正14年)専門部に「医学科(現:医学部)」を設置する。その後、1942年(昭和17年)に医学部が設置された。1928年(昭和3年)、工学部(現在の理工学部の前身)を設置した。早稲田大学理工学部に次いで2番目の工学系学部で、「土木工学科」「建築学科」「機械工学科」「電気工学科」の4学科を置いた。1937年(昭和12年)、法文学部文学科芸術学専攻を「芸術学科(文芸学・演劇美学・映画美学・美術史・音楽美術専攻)」に改組した。1943年(昭和18年)に農学部(現・生物資源科学部)を設置。

戦後、1947年に専門部工科を福島県田村郡に移転。1948年(昭和23年)に専門部医学科を廃止。1949年新制大学が発足し、法文学部芸術学科と専門部工科を母体に芸術学部と第二工学部(工学部の前身)を新設。1952年に工学部に薬学科(現・薬学部)と工業経営学科(現・生産工学部)を設置。1957年に商学部を設置。1958年に文学部、工学部を文理学部、理工学部に改組。1976年に松戸歯学部を設置。1978年に国際関係学部を設置。2016年に危機管理学部、スポーツ科学部を設置。

基本事項[編集]

  • 名称:日本大学
  • 設置者:学校法人日本大学
  • 所在地:学部を参照
  • 理事長:林真理子
  • 創立:1889年(明治22年)10月4日
  • 学祖:山田顕義
  • 創立者:宮崎道三郎、金子堅太郎、上條慎蔵、斯波淳六郎、末岡精一、添田寿一、野田藤吉郎(長森藤吉郎)、樋山資之、平島及平、穂積八束、本多康直

学部[編集]

学部はそれぞれが独立して、1学部1キャンパスとなっている[注 1]

No 学部 学生数 キャンパス  所在地
1 法学部 6,864 神田三崎町キャンパス 東京都千代田区神田三崎町2丁目3番1号
2 法学部(第二部) 612 神田三崎町キャンパス 東京都千代田区神田三崎町2丁目3番1号
3 文理学部 8,245 文理学部キャンパス 東京都世田谷区桜上水3丁目25-40
4 経済学部 6,615 経済学部キャンパス 東京都千代田区神田三崎町1-3-2
5 商学部 5,527 砧キャンパス 東京都世田谷区砧5丁目2−1
6 芸術学部 3,894 江古田キャンパス 東京都練馬区旭丘2-42-1
7 国際関係学部 2,981 三島キャンパス 静岡県三島市文教町2-31-145
8 危機管理学部 1,278 三軒茶屋キャンパス 東京都世田谷区下馬3丁目34-1
9 スポーツ科学部 1,250 同上 同上
10 理工学部 8,953 駿河台キャンパス
船橋キャンパス
東京都千代田区神田駿河台1丁目8-14
千葉県船橋市習志野台7-24-1
11 生産工学部 6,204 津田沼キャンパス
実籾キャンパス
千葉県習志野市泉町 1-2-1
千葉県習志野市新栄2-11-1
12 工学部 4,368 福島県郡山市田村町徳定字中河原1
13 医学部 752 医学部板橋キャンパス 東京都板橋区大谷口上町 30-1
14 歯学部 810 歯学部キャンパス 東京都千代田区神田駿河台1-8-13
15 松戸歯学部 787 松戸歯学部キャンパス 千葉県松戸市栄町西2-870-1
16 生物資源科学部 6,677 湘南キャンパス 神奈川県藤沢市亀井野1866
17 薬学部 1,536 薬学部キャンパス 千葉県船橋市習志野台7-7-1

豆知識[編集]

創立時の危機[編集]

創立4年目に窮地に陥り、一時は学校を閉鎖する決議をした。松岡学長は硬派校友やその他の有志に図ってようやく維持することができた[2]

社長が多い[編集]

東京商工リサーチの2019年調査によると、全国社長の出身大学で日本大学が9年連続でトップを維持している。集計対象外企業は26万3,690社であり、東京商工リサーチの企業データベース約379万社の代表者データ(個人企業を含む)から、公開されている出身大学を抽出し、集計したものである。社長の出身大学トップは、日本大学が2万1,581人である。都道府県別でも日本大学が20都県(前年19都県)でトップを占めている。

No 大学名 人数
1 日本大学 21,581
2 慶應義塾大学 10,650
3 早稲田大学 10,441
4 明治大学 8,525
5 中央大学 7,807
6 法政大学 6,296
7 近畿大学 5,893
8 東海大学 5,755
9 同志社大学 4,967
10 東京大学 3,953

大学群[編集]

日東駒専(元は日東専駒成成神)の一角。但し工学系学部は日大と東洋大学しか持たない。

12代理事長の逮捕[編集]

2021年11月28日田中英壽理事長(第12代)を所得税法違反の疑いで逮捕。田中は、本学OBで、アマチュア相撲団体を掌握(女子新相撲も創始した)し、妻に経営させていたちゃんこ屋を事実上日本大学の最高会議にするなどして企業などから資金を集め、反対派を追い落としてトップの座に就き、就任後は「(株)日大事業部」を砦に権力を強めていた[注 2]。逮捕後、田中は理事長を辞任し、本学の理事職も解職された。

2021年12月20日東京地方検察庁特別捜査本部は田中を5200万円の脱税をしたとして起訴した。

2021年12月21日東京拘置所は6000万円の保釈金で田中を保釈した。

交通[編集]

三崎町キャンパス
工学部

出身著名人[編集]

カテゴリ:日本大学出身の人物」も参照

アマ相撲関係者[編集]

  • 石浦外喜義 - 鳥取城北高等学校校長。相撲部監督として、照ノ富士逸ノ城、実子の将勝(後述)らを育てる。
  • 山田道紀 - 埼玉栄高等学校相撲部監督。久島海と大学同期で団体戦連覇に貢献。卒業後に部員2人の埼玉栄高コーチに赴任。監督として相撲部を名門に成長させ、大卒、高卒の教え子から多数の大相撲力士を輩出。
  • 禧久昭広 - 鹿児島商高相撲部監督。大学同期の舞の海をさらに下回る小兵ながら、アマ横綱2度獲得。指導者としても里山、大奄美らを育てている。
  • 木崎孝之助 - 現日大相撲部監督。美ノ海のおじ。
  • 義江和也 - 芸人。Netflixドラマ「サンクチュアリィ」で力士役で出演。文理学部社会学科出身で、相撲部では美ノ海の2年後輩。

角界[編集]

特定の部屋への集中が少ないのが特徴。

OB[編集]

  • 輪島大士田中英壽のライバル。大卒者唯一の横綱。親方廃業後はプロレスに転向。
  • 出羽の花義貴:元関脇。元出来山親方。人間ジューサーとして知られたが、幕下付出デビューは負け越し。
  • 大ノ海敬士:輪島と同部屋に入門し、前頭下位まで昇進するもプロレスに転向。
  • 花嵐一美:元十両。学生相撲で実績を挙げたがプロで伸び悩み。大相撲廃業後、大黒坊弁慶のリングネームでプロレスラーになった。
  • 両国梶之助:元小結。小林山の四股名でデビュー後、両国の四股名となり、後に両國(両国)梶之助の6人目。当代境川親方。
  • 久島海啓太:元前頭。高校生初のアマチュア横綱になったが、教職を目指して進学するも、免許が取れなかったため、角界入り。アマチュアでの実績の割に三役にもなれなかった。元田子ノ浦親方。
  • 大翔山直樹:元幕内、当代追手風親方。
  • 舞の海秀平:元小結。「技のデパート」の異名を持つ。現タレント。大相撲解説も行い、北の富士勝昭との掛け合いが人気を博す。
  • 大翔鳳昌巳:元小結、舞の海の大学同期。引退後すぐ早逝。
  • 智乃花伸哉:元小結、日大後輩の舞の海の活躍に刺激され、27歳で教職から転身。付出からの三役昇進で輪島の記録を更新。当代玉垣親方。
  • 追風海直飛人:元関脇、現在は青森県県議会議員。高見盛の同郷の先輩。
  • 大翔大豪志:元十両、追風海の高校、大学の同期。付出資格が取れず前相撲から入門。
  • 濱ノ嶋圭志:元小結、当代尾上親方。
  • 肥後ノ海直哉:元幕内、三役未経験力士の幕内最長在位記録を作った。当代木村瀬平親方。
  • 高見盛精彦:元小結、独特の気合い入れから曙太郎から「ロボコップ」のニックネームを拝領する。永谷園のCMにも登場。当代東関親方。
  • 北勝森文仁:元幕下。高校、大学と舞の海の後輩。大学時代に学生横綱を取って、八角部屋初の日大出身力士になったが、怪我等でプロでは伸び悩んだ。
  • 北勝光康仁:元十両、北斗森の1年後輩で同部屋の後輩。付出資格が取れず前相撲から入門し、関取に昇進。
  • 里山浩作:元幕内。鹿児島商高では禧久昭広に師事。伝え反りの技も出している。当代千賀ノ浦親方。
  • 常幸龍貴之
  • 石浦将勝:元幕内。父(前述)の影響で相撲を始める。当代間垣親方。
  • 木崎海伸之助:元十両。美ノ海の実弟。

現役[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. 例外として、2学部併設の三軒茶屋キャンパス、1学部2キャンパスの理工学部、生産工学部がある。また、過去には教養部が世田谷と三島に分かれていた。
  2. 田中は後に大相撲横綱となる輪島大士を圧倒し、アマ横綱3度獲得などアマチュア相撲で実績を残し、獣医学部で保健体育の助手をしていたが、相撲部の監督となってから頭角を現し、多数の大相撲力士を輩出し、OBを強豪実業団選手、強豪高教員にさせて派閥を形成して、大相撲とも深い関係を築き上げていた。
出典
  1. 橋下徹「日大広報が炎上した本当の理由」(PRESIDENT)2018年5月30日
  2. 平元兵吾(1912)『八大学と秀才』日東堂書店