成成神

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成成神(せいせいしん)とは、日本における大学群の通称のひとつ。関東の私立大學では日東駒専と呼ばれる大学群に加えて、成成神と呼ばれる大学が人気であった。中堅の入試難易度の総合大学であり、東京神奈川に所在する私立大学のうち次の3校が括られている。後に、明治学院大学を加えて「成成明神」や成成明学等と変化するようになる。

由来[編集]

多方面への実績に比して知名度が首都圏に限定的なこれらの大学が、1960年代から学部学科の増設や定員枠拡大などによる急速な規模拡大から注目を浴び、螢雪時代が日東専駒4大学+成成神3大学を一括して呼称し始めたことに由来する。しかし、今日では日東駒専の4校だけの括り方が多くみられる

風説[編集]

螢雪時代では1960年代にキャッチコピー「日東専駒」を用いていたが 1970年代になると日東駒専に、「成成神」と併せて、「日東専駒成成神」(今日の日東駒専とは駒と専の順も逆)としていた。
今日、「日東駒専」と呼ばれる大学群に繋がるが、1970年代に正せば、「日東専駒成成神」。 競馬になぞらえて「二頭先駒斉整哉(にとうせんこませいせいかな)」と書く人もいた。
語順を変え数回記載する雑誌も現れ、丙午生まれ収束後の1986年からの受験生急増期に「難易度急上昇」の大学群にも用いられたが、数年後に現在の語順が定着した。

近年[編集]

「成成明神」 「成成神」から経年し、明治学院大学を加えて「成成明神」とするようになる。

「成成明学」 神奈川大学を除き、明治学院大学を加えた括り方

獨國武」 成蹊大学、成城大学、神奈川大学を全て除き、獨協大学・國學院大学・武蔵大学を括ったもの。

「成成明國武」 河合塾Kei-Netで使われる大学グループで成蹊大学、成城大学に明治学院、國學院大学、武蔵大学を加えて括ったもの。

大学間の交流[編集]

現在、この4大学のみで行われている公的な集会や企画は特にないが、関東圏の大学スポーツでは大学同士が競う事もある。 東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)では、神奈川大学が優勝歴もあるが、実は、成蹊大学も過去に箱根駅伝の出場歴を持っている

各大学の概要[編集]

  • 成蹊大学は、三菱財閥4代目総師・岩崎小弥太と今村銀行(後に第一銀行と合併、第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行が承継)頭取・今村繁三の協力を得て創設した私塾「成蹊園」が母体。1949年の学制改革に伴い、旧制成蹊高等学校を母体として新制大学として、政治経済学部単科の成蹊大学が創設された。
  • 成城大学は、澤柳政太郎が、1917年に成城中学校に併設した成城小学校(創立者は日本体育会体操学校「のちの日本体育大学」と同じ日高藤吉郎ら-成城学校)を源流としている(後に正式に分離独立。成城学校との関係については学校法人成城学園#成城学校との関係を参照。)。その後、1926年に7年制高等学校である旧制成城高等学校を創設、翌年には、高等女学校である成城高等女学校を創設した。1949年の学制改革に伴い、旧制成城高等学校及び成城高等女学校を母体として新制大学と新制中学校・新制高等学校へ組織変更することとなり、1950年に成城大学が創設された。
  • 神奈川大学は、1928年に昭和期の政治家、衆議院議員米田吉盛が横浜市中区桜木町に横浜学院を開設した。その後、1929年に専門学校令によって横浜専門学校となる。横浜専門学校は、勤労青年の為の夜間部を設けていたが、これは高等教育機関としては横浜初のことであった。所在地は横浜市中区桜木町であった。1930年、当時東急東横線の開通で発展の見込まれた横浜市神奈川区六角橋の字・宮面の丘陵に移転し、現在に至る。現在の校名は第二次世界大戦後の学制改革による大学昇格時に決定した名称である(横浜国立大学#名称の由来を参照)。
  • 明治学院大学は、明治学院の起源は1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」を起源とする日本最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)。1949年に新制大学として発足し、現在では6学部15学科、7研究科を擁する純文系の大学となった(理系学部・学科は有していない)。

参考資料[編集]

  • 蛍雪時代(旺文社)各号
  • YOZEMI Jornal(代々木ゼミナール)各号
  • 週刊現代(講談社)各号

脚注[編集]

関連項目[編集]