専門学校 (旧制)

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旧学制における専門学校 (せんもんがっこう)とは、かつて旧制中学校を主とした中等教育機関を卒業した者に対して高度な教育を行った高等教育機関である。

概要[編集]

大学令施行以前は、帝国大学令に拠らない高等教育機関で、早稲田大学慶應義塾大学部日本女子大学校といった「大学」の校名のあった学校も専門学校令に準拠した学校だった。
大学令施行後は、高等実業学校と同じ位置づけとなり、私立大学も附属の専門部を競って設置した。また旧制高等学校に1906年まで存在した医科、工科、法科といった専門科も専門学校に移行した。学生は旧制高校と合わせて高専生と呼ばれた。

高等実業学校は下部に中等教育機関である実業学校があるのに対して専門学校にはそれがないのが特徴である。
実業学校令廃止直前には、医学、薬学、芸術、鉱業、語学といった分野に存在した。
特に、医学専門学校は官立の高等歯科医学校と共に4年制の学校であり、医専や高等歯科医校の卒業見込者は申請によって得業士の称号を得ることができた。

昭和18年の学制改革による実業学校令の廃止により専門学校は旧来の高等実業学校を含むことになり、同時に各道府県立の師範学校青年師範学校も官立移管され、旧制中等学校相当から専門学校相当の位置付けに格上げされた。
また、太平洋戦争での軍用機研究のために航空・機械技術者養成のための工業専門学校が多数設立された[注 1]

終戦直後[編集]

太平洋戦争後、旧制医学専門学校より大学令による大学昇格を開始した(後述)。

また、学校増設は、農業専門学校など、産業関係が重視され、工専に転換された旧高商のうち3校で学制改革まで、工専に据え置かれたままとなった。

新学制発足後[編集]

1948年に新制高校が発足したが、旧制中等教育学校卒業者向けに最後の募集を行った。翌1949年の学制改革によって募集停止となり、多くの旧制専門学校や大学専門部が大学に包摂[注 2]され、制度上新制の学部に昇格した後、1951年3月末で閉校となった。
なおごく僅かだが、新制大学発足後短期間で廃学になったところもある[注 3]
一方、設備の整わない一部の専門学校は、翌年に制度発足した短期大学[注 4]各種学校[注 5]に転換した。

臨時医科専門学校[編集]

大正〜昭和初期に官立医科専門学校は官立医科大学に移行し、内地の医専は私立校のみとなったが、日中戦争の拡大による軍医の需要の高まりから軍医の促成養成のために官公立の臨時医科専門学校が設立された。当初は暫定的な制度であったが、後に名称から「臨時」が削除された。
戦後、GHQによって、学校毎にA級、B級の審査が行われ、A級校は、学制改革による大学令廃止を待たずに旧制大学に昇格したところが多く[注 6]、B級校は医学教育継続を諦め、高等学校令による戦後特設高等学校に移行した。

関連項目[編集]

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  1. これらの工業専門学校の多くは戦後四年制大学の工学部となり、後に財界から旧制工専相当の学校の新設要望がされる要因となる。
    また、高等商業学校(高商)から工業専門学校(工専)に転換した学校も少なくなかった。
  2. 例えば、官立広島工業専門学校は、廃校まで広島大学広島工業専門学校の名称となった。
  3. 例えば、戦時急造の久我山工業専門学校は、戦後工学部単科の久我山大学となったが、2年持たずに廃学になった。
  4. 男子校・男女校前身の学校は、柏崎専門学校から短大化した新潟短期大学(新潟産業大学の前身)、興亜専門学校から短大化した日本経済短期大学(亜細亜大学の前身)など少数。公私立の女子専門学校は女子短期大学に転換した学校も多かったが、1990年代以降、大勢は四年制大学に転換した。
  5. 例えば、大学受験予備校に転換した研数専門学校
  6. この施策に伴い、東京女子医専、名古屋女子医専、大阪女子高等医専が、国内初の女子大学である東京女子医科大学名古屋女子医科大学大阪女子医科大学となった。
    また、徳島医専は1、2年次のみA級とされ、下級学年のみ徳島医科大学に昇格した。

参考文献[編集]