大相撲

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大相撲(おおずもう)は、プロの相撲。日本相撲協会による興行。単なる競技スポーツや興行ではなく、相撲が本来持つ伝統芸術や神事性などの文化の振興と、次世代への継承を図る日本相撲協会の基幹事業である。

概要[編集]

興行・神事武道としての相撲全般や関係者を大相撲というが、現在では日本相撲協会主催の興行や関係者(角界と呼ばれることもある)を指すことが多い。
おおよそ1分を超える相撲対戦に対しても「大相撲」という言葉が用いられている。

法人概要[編集]

  • 法人名 - 公益財団法人日本相撲協会
  • 発足日 - 1966年4月1日(1925年創立の大日本相撲協会を改称)

法人理事[編集]

  • 理事長 - 保志信芳(元横綱・北勝海
  • 事業部長(事実上の副理事長)- 吉永一美(元大関・霧島
  • 巡業部長 - 綛田清隆(元関脇・栃乃和歌
  • 広報部長 - 青木康(元横綱・大乃国
  • 審判部長 - 杉野森正也(元横綱・旭富士
  • 同上 - 鎌谷満也(元関脇・琴ノ若
  • 教習所長 - 坂爪忠明(元関脇・太寿山
  • 地方場所部長
    • 大阪 - 久我準人(元前頭・北勝鬨
    • 名古屋 - 小岩井昭和(元前頭・小城ノ花
    • 九州 - 小林秀昭(元関脇・両国

評議員[編集]

公益財団法人に転換後に配された非常勤の役職。過去には現役親方の一部が本名で就いていたが、2018年より現役親方の任命は無くなった。

沿革[編集]

江戸時代[編集]

江戸時代には辻相撲が盛んになり、ひとがたやといわれる、大勢の人が対戦者を遠巻きに囲み、そこに押し込むと勝ちになるルールができたが、それによって喧嘩が起きるために徳川幕府はしばしば禁令を発した。そこで寺院の改修目的での相撲を行い、入場料の一部をそれに充てるということにして許可をとり、日本最古のプロスポーツである大相撲が誕生した。大相撲の人気は上昇し、大名が選手を抱えるようになった。また、大相撲の選手を「力士」と呼ぶようになったのもこの頃からである。錦絵に力士が登場し、番付も整備された。黒船来航当時、巨体のアメリカ人に対して背の低い日本人は圧倒されっぱなしであったため、力士を登場させ、重い米俵を船に積み込ませて溜飲を下げさせたこともあった。

明治時代・大正時代[編集]

明治時代に入り、大相撲は危機的な状況を迎えた。屋外で裸体になることを禁じられ、断髪令も発せられ、さらに大名の庇護も失ってしまったのである。しかし、明治天皇が相撲を好み、伊藤博文をはじめとする明治の元勲の庇護を受けて大相撲は再び盛んになった。板垣退助が大相撲を「国技」と称すしたのもこの頃であった。やがて東京府両国に西洋式建築の両国国技館が誕生した。さらに優勝制度を発足させた。

昭和時代[編集]

ラジオ放送を行うなど、大相撲人気を呼び寄せた。一方、力士の待遇は悪いままでこれが春秋園事件の勃発に至った。やがて戦時下に入り、力士の中にも召集令状が届くようになった。戦地で命を落とす力士も出てきた。それでも本場所は続けられ、1945年は国技館が大日本帝国陸軍に接収されて後楽園球場傷痍軍人のみに公開された。新聞の扱いも戦況が主になる以上、地味な扱いになった。初代両国国技館が終戦直後に米軍に接収された後、蔵前国技館で本場所興行を行っていたが、日本国有鉄道自動車局の土地を購入して両国国技館を完成させた。

番付[編集]

大相撲では、実力に応じた番付と呼ばれる格付けを行って、主に6つの枠の中で対戦を行わせる。上から幕内十両幕下三段目序二段序ノ口に分かれてそれぞれの枠内で対戦をすることになる。その中でも、幕内、十両の力士関取として一人前の力士として扱われる。幕内42人、十両28人、幕下120人、三段目180人[注 1]の定員はあるが、序二段以下の定員は特になく、当該人員を4:1くらいで配分し、序二段は200〜300人、序ノ口は40〜60人ぐらいであることが多い。
入門した力士は前相撲を経て序ノ口に番付が載る。

幕内の番付は、上から横綱大関関脇小結前頭の順番であり、三役(大関・関脇・小結)以下の力士はすべて前頭となる。幕内力士の前頭は「平幕」と呼ばれることが一般的。昇進していくためには勝ち越しが必要であり、逆に負け越しとなると降格してしまう。しかし、「番付は生き物」という言葉に代表されるように、勝ち越したからといっても他の力士が同じ地位で勝ち越ししたときと同じように昇進できるわけではなく、横綱・大関や十両への昇進では揉めることもある。

関脇までは、勝ち越せばポストが空いている限り昇進できる。大関、横綱への昇進は、ただ勝ち越すだけでなく連続で高成績をあげることが最低条件で、さらに理事会の承認が必要となる。一方、横綱は負け越しても降格せず、大関は2場所連続の負け越しでなければ降格しない。
序ノ口は、全休しない限り、前相撲を再度取る必要がある番付外に降下しない。また負け越しても番付枚数が降下しないことがある。それどころか、新弟子が多い時期は序二段に昇格するケースもある。

番付は成績に基づき、千秋楽終了3日後に、協会審判部が主宰する番付編成会議で編成され、会議終了後、十両は昇進力士が公表され、関脇力士の大関昇進や横綱審議委員会の推挙を得た横綱昇進は協会理事会に諮られ、昇進が決まると昇進伝達式で当該力士に伝達される。

付出[編集]

入門前のアマチュア相撲での実績が認められると付出資格を持つ。その場合、前相撲を経ずに上位の番付で取組が組まれる。

2023年9月28日に日本相撲協会は付出資格を変更し、国民体育大会成年の部、学生選手権、全日本相撲選手権の25歳未満の上位者で、ベスト8以内は全て幕下最下位付出、ベスト16以内は三段目最下位付出とした。また、インターハイベスト4位以内の三段目最下位付出を設定して高校卒業前後の付出資格取得を容易にした[注 2]

一方で、従前の、幕下10枚目格付出と幕下15枚目格付出は廃止し、社会人選手権の上位者は付出対象から除外した。

なお、付出資格の1年間限定は残るため、大学生や高校2年生以下の該当者の場合、卒業を優先し、付出資格獲得の翌年度以降にタイトル獲得ができない場合、前相撲から始めることになり、即入門に踏みきりやすい社会人より不利である。

付出資格変更前は三段目最下位、もしくは幕下15枚目格(但し、幕下15枚目よりは下位の番付)、幕下10枚目格とされた。付け出し資格はアマチュア選手権、国民体育大会成年の部、学生選手権、社会人選手権によって、幕下は1年以内の優勝、三段目最下位は1年以内のベスト8以内であることが条件であった。

番付上の出身地[編集]

番付掲載や本場所で放送される出身地は相撲協会に登録された地[注 3]が使われる。特に東京都区部出身力士[注 4]の場合、父母の出身地が用いられることが多い[注 5]。これは、「江戸の大関よりクニの三段目」のことわざがあるように、地方巡業ではいわゆる「クニモン」力士が人気を集めやすいことや後援会が結成されやすいことが要因である。

大相撲の興行[編集]

本場所[編集]

最初は1年に2場所であったが、徐々に場所数が増加してゆき、昭和33年(1958年)から年6場所制となった。

巡業[編集]

2月以外の本場所の無い月は、もう一つの興行の柱である巡業が行われる。

花相撲[編集]

番付編成に反映されない相撲場所を花相撲と呼ぶ。以下の著名なものや引退相撲が該当する。

  • 大相撲トーナメント:フジテレビ等が主催。2月開催
  • NHK福祉大相撲:2月開催
  • 全日本力士選士権大会:10月開催

[編集]

  1. 2022年3月場所まで200人。
  2. 2023年11月場所に該当者が1名出たが、権利放棄して前相撲で初土俵を踏んだ。
  3. 例えば稀勢の里は出生地の芦屋市でも、中学時代を過ごした龍ケ崎市でもなく、入門時に実家のあった牛久市を出身地としている。
  4. 親方の子が多いが、北勝力のように親族に相撲関係者がいない場合もある。
  5. 東京育ちでありながら、師匠の父親の鹿児島県を出身地とした逆鉾寺尾兄弟など。一方、三代目若乃花、二代目貴乃花、二代目栃東や現役の王鵬は東京出身、現役の琴の若は出生地の千葉出身としている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]