大相撲
大相撲(おおずもう)は、プロの相撲。日本相撲協会による興行。単なる競技スポーツや興行ではなく、相撲が本来持つ伝統芸術や神事性などの文化の振興と、次世代への継承を図る日本相撲協会の基幹事業である。
概要[編集]
興行・神事・武道としての相撲全般や関係者を大相撲というが、現在では日本相撲協会主催の本場所、巡業、花相撲の興行や関係者(角界と呼ばれることもある)を指すことが多い。
番付に反映される本場所は年に6回、奇数月に開催する。15日間に亘って行われ、勝ち数の多い力士を優勝とする。優勝者は6つの階級毎に決められ、賞状、優勝賞金が渡される。幕内最高優勝者は優勝旗と天皇賜杯が渡され、さらに副賞が贈られる。
おおよそ1分を超える相撲対戦に対しても「大相撲」という言葉が用いられている。実際、相撲の取組が長時間にわたったときに「大相撲になりました」とアナウンスされることもある。
法人概要[編集]
- 法人名 - 公益財団法人日本相撲協会
- 発足日 - 1966年4月1日(1925年創立の大日本相撲協会を改称)
法人理事[編集]
- 理事長 - 保志信芳(元横綱・北勝海)
- 事業部長(事実上の副理事長)- 綛田清隆(元関脇・栃乃和歌)
- 巡業部長 - 小林秀昭(元関脇・両国)
- 広報部長 - 鎌谷満也(元関脇・琴ノ若)
- 審判部長 - 山中勝巳(元関脇・安芸乃島)
- 教習所長 - 青木康(元横綱・大乃国)
- 危機管理部長 - 山田利郎(元前頭・起利錦)
- 地方場所部長
評議員[編集]
- 公益財団法人に転換後に配された非常勤の役職。過去には現役親方の一部が本名で就いていたが、2018年より現役親方の任命は無くなった。
沿革[編集]
江戸時代[編集]
江戸時代には辻相撲が盛んになり、ひとがたやといわれる、大勢の人が対戦者を遠巻きに囲み、そこに押し込むと勝ちになるルールができたが、それによって喧嘩が起きるために徳川幕府はしばしば禁令を発した。そこで寺院の改修目的での相撲を行い、入場料の一部をそれに充てるということにして許可をとり、現在の大相撲の原型となる日本最古のプロスポーツである勧進相撲が誕生した。
勧進相撲の人気は上昇し、大名が相撲取りを士分として抱えるようになった(抱え力士)。また、相撲取りを「力士」と呼ぶようになったのもこの頃からである。錦絵に力士が登場し、番付も整備された。
黒船来航当時、巨体のアメリカ人に対して背の低い日本人は圧倒されっぱなしであったため、力士を登場させ、重い米俵を船に積み込ませて溜飲を下げさせたこともあった。
明治時代・大正時代[編集]
明治時代に入り、相撲競技は危機的な状況を迎えた。屋外で裸体になることを禁じられ、断髪令も発せられ、さらに大名の庇護も失ってしまったのである。しかし、明治天皇が相撲を好み、伊藤博文をはじめとする明治の元勲の庇護を受けて大相撲は再び盛んになった。板垣退助が大相撲を「国技」と称したのもこの頃であった。1889年(明治22年)には、東京相撲協会が発足し、現在の大相撲組織の原型が出来上がった。
やがて東京府両国に西洋式建築の両国国技館が誕生したことで東京相撲は栄え、さらに、時事新報社が優勝額を掲額することで優勝制度が確立した。一方で、江戸時代からあった大坂相撲は大正期に衰退し、東京相撲と実力差がついた。
昭和時代[編集]
1927年(昭和2年)に国内の相撲興行は大日本相撲協会に一本化され、幕内最高優勝者に賜杯が贈られるようになった。
1928年(昭和3年)には今に続くラジオ放送が開始され、大相撲人気を呼び寄せた。一方、力士の待遇は悪いままでこれが春秋園事件の勃発に至ったが、若手から急造昇進した双葉山が未曾有の活躍をして相撲人気は盛り返した。
やがて戦時下に入り、力士の中にも召集令状が届くようになった。戦地で命を落とす力士も出てきた。それでも本場所は続けられ、1945年は国技館が大日本帝国陸軍に接収されて後楽園球場で傷痍軍人のみに公開された。新聞の扱いも戦況が主になる以上、地味な扱いになった。
終戦直後、初代両国国技館が米軍に接収された後、蔵前国技館で本場所興行を行い、栃若、柏鵬、輪湖のライバル対決が出る度に相撲人気が盛り上がったが、日本国有鉄道自動車局の土地を購入して1985年(昭和60年)に両国国技館が完成した。
番付[編集]
大相撲では、実力に応じた番付と呼ばれる格付けを行って、主に6つの枠の中で対戦を行わせる。上から幕内、十両、幕下、三段目、序二段、序ノ口に分かれてそれぞれの枠内で対戦をすることになる。その中でも、幕内、十両の力士は関取として一人前の力士として扱われる。幕内42人、十両28人、幕下120人、三段目180人[注 1]の定員はあるが、序二段以下の定員は特になく、当該人員を4:1くらいで配分し、序二段は200〜300人、序ノ口は40〜60人ぐらいであることが多い。
入門した力士は前相撲を経て序ノ口に番付が載る。
幕内の番付は、上から横綱、大関、関脇、小結、前頭の順番であり、三役(大関・関脇・小結)以下の力士はすべて前頭となる。幕内力士の前頭は「平幕」と呼ばれることが一般的。昇進していくためには勝ち越しが必要であり、逆に負け越しとなると降格してしまう。しかし、「番付は生き物」という言葉に代表されるように、勝ち越したからといっても他の力士が同じ地位で勝ち越ししたときと同じように昇進できるわけではなく、横綱・大関や十両への昇進では揉めることもある。
関脇までは、勝ち越せばポストが空いている限り昇進できる。大関、横綱への昇進は、ただ勝ち越すだけでなく連続で高成績をあげることが最低条件で、さらに理事会の承認が必要となる。一方、横綱は負け越しても降格せず、大関は2場所連続の負け越しでなければ降格しない。
序ノ口は、全休しない限り、前相撲を再度取る必要がある番付外に降下しない。また負け越しても番付枚数が降下しないことがある。それどころか、新弟子が多い時期は序二段に昇格するケースもある。
番付は成績に基づき、千秋楽終了3日後に、協会審判部が主宰する番付編成会議で編成され、会議終了後、十両は昇進力士が公表され、関脇力士の大関昇進や横綱審議委員会の推挙を得た横綱昇進は協会理事会に諮られ、昇進が決まると昇進伝達式で当該力士に伝達される。
付出[編集]
入門前のアマチュア相撲での実績が認められると付出資格を持つ。その場合、前相撲を経ずに上位の番付で取組が組まれる。
2023年9月28日に日本相撲協会は付出資格を変更し、国民体育大会成年の部、学生選手権、全日本相撲選手権の25歳未満の上位者で、ベスト8以内は全て幕下最下位付出、ベスト16以内は三段目最下位付出とした。また、インターハイベスト4位以内の三段目最下位付出を設定して高校卒業前後の付出資格取得を容易にした[注 2]。
一方で、従前の、幕下10枚目格付出と幕下15枚目格付出は廃止し、社会人選手権の上位者は付出対象から除外した。
なお、付出資格の1年間限定は残るため、大学生や高校2年生以下の該当者の場合、卒業を優先し、付出資格獲得の翌年度以降にタイトル獲得ができない場合、前相撲から始めることになり、即入門に踏みきりやすい社会人より不利である。
付出資格変更前は三段目最下位、もしくは幕下15枚目格(但し、幕下15枚目よりは下位の番付)、幕下10枚目格とされた。付け出し資格はアマチュア選手権、国民体育大会成年の部、学生選手権、社会人選手権によって、幕下は1年以内の優勝、三段目最下位は1年以内のベスト8以内であることが条件であった。
番付上の出身地[編集]
番付掲載や本場所で放送される出身地は相撲協会に登録された地[注 3]が使われる。特に東京都区部出身力士[注 4]の場合、父母や祖父母の出身地が用いられることが多い[注 5]。これは、「江戸の大関よりクニの三段目」のことわざがあるように、地方巡業ではいわゆる「クニモン」力士が人気を集めやすいことや後援会が結成されやすいことが要因である。
大相撲の興行[編集]
本場所[編集]
最初は1年に2場所であったが、徐々に場所数が増加してゆき、昭和33年(1958年)から年6場所制となった。
幕下以下は一場所7番(8番相撲を取る力士もいる)、十両、幕内は一場所15番対戦をする。
- 1月場所 - 東京・両国国技館。通称、初場所。
- 3月場所 - 大阪・大阪府立体育会館。通称、春場所。
- 5月場所 - 東京。通称、夏場所。
- 7月場所 - 愛知名古屋・愛知県体育館。通称、名古屋場所で、本場所では唯一中日新聞社も共催。
- 9月場所 - 東京。通称、秋場所。
- 11月場所 - 福岡・福岡国際センター。通称、九州場所。
巡業[編集]
2月以外の本場所の無い月は、もう一つの興行の柱である巡業が行われる。
花相撲[編集]
番付編成に反映されない相撲場所を花相撲と呼ぶ。以下の著名なものや引退相撲が該当する。
- 大相撲トーナメント:フジテレビ等が主催。2月開催
- NHK福祉大相撲:2月開催
- 全日本力士選士権大会:10月開催
マスコミの扱い[編集]
「放映権#大相撲」も参照
新聞やテレビのニュースではスポーツとして扱い、取り組み後の幕内の結果が報道される。また、注目を浴びた取り組みの内容も報道される。
注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]