北の富士勝昭

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北の富士勝昭 (きたのふじかつあき、1942年3月28日 - 2024年11月12日)は、NHK解説者。大相撲横綱だった人[注 1]。時代の風雲児。本名は竹澤勝昭。

人物[編集]

北海道美幌町生まれ、留萌市育ち、協会上では旭川市出身。ネット上で人気があり、「かつあき」と呼ばれている。
巡業をずる休みしてハワイサーフィンを楽しんだり、拳銃を密輸して暴力団に渡して書類送検されたり、引退後、断髪式に備えてダイエットを実行したりと破天荒な行動を行った。
親方となり、先代の逝去で九重を継承してから、「力士の長所を尊重しながら、肝心なところでチクっと言って、闘争心をくすぐる」育成術で、千代の富士、北勝海と弟子2人を横綱に昇進させた。孫弟子、曽孫弟子は、現在の九重部屋、八角部屋の力士である。また、一門外の、伊勢ヶ浜部屋の力士の四股名につけられる「〇〇富士」も、実は北の富士から千代の富士、旭富士を経て受け継がれたものである。

親方時代から場所中に連載している中日スポーツの「北の富士勝昭 はやわざ御免」では、気分の浮き沈みまで本音をぶちまけている。
また、親方退職後はNHK専属で大相撲解説を行い、千秋楽の解説では舞の海秀平が貴重な相方となっていた。現役力士の取組に対し、厳しい毒舌家ぶりを発揮していた。

最近は心臓の手術もしたそうであり、加えてNHKの解説も2023年春場所から欠場しており、動向が心配されていたが、令和六年秋場所後に体調を崩し、2024年11月20日、同月12日に亡くなっていたことが分かったと報じられた。

北の富士賞[編集]

十両は実力が拮抗して、北の富士自身が1963年に記録して以来、十両の全勝優勝力士が出なかった。2005年に豊ノ島が好調の時、「全勝なら金一封をやろう。そう北の富士賞」と発言し、2006年に十両全勝優勝を成し遂げた把瑠都に北の富士賞が贈られた。賞金は北の富士のポケットマネーで、その後、2014年に栃ノ心も十両全勝優勝したが、予算不足を理由に賞は見送られた。ちなみに、2023年初場所で10日目まで10連勝した朝乃山について、もし全勝であれば北の富士賞を授与するつもりだったと千秋楽時に明かした。なお、2025年以降、有志の出資によって北の富士の業績を称えた野球の沢村賞みたいな賞にして授与するかどうかは未知数である。

エピソード[編集]

横綱在位時の弟弟子で、九重継承後に育成に携わった千代の富士貢が休みの日にテレビゲームばかりしていたので、千代の富士に「おい、ゴルフ行くぞ」と無理矢理ゴルフ場に連れて行ったら、ゴルフ初体験ながら、かつあきよりも良いスコアを千代の富士が出して、「いやあ、師匠、ゴルフって楽しいですね」と言われたそう。

解説者時代は、相撲の話もそこそこに「北海道からアスパラガス送って来てもらったんだ。今日はこれをバターで炒めよう」と新聞記者に言ってみたりと、かなり茶目っ気のある性格も披露していた。

経歴[編集]

横綱千代の山雅信に誘われたことを契機に1957年に本名由来の竹沢勝昭で出羽海部屋から初土俵。当時の師匠は元横綱、常ノ花で、序二段時に「竹美山」に改名、三段目で北の富士となる。師匠は、後に元前頭、出羽ノ花が継承する。大部屋の取的に甘えて関取昇進にモタモタし、当時あった自費養成員の対象になりかけたが、柏鵬時代の1963年に新十両。十両を5場所で通過し新入幕。新入幕場所で大勝し、翌場所の1964年にいきなり新三役(小結)となる。1966年に大関昇進。

大関昇進後、部屋付きの九重親方となっていた千代の山の分家独立に同道し、小部屋の九重部屋に移籍。その後柏鵬時代も終わり、柏戸引退、大鵬も現役末期で、北玉時代が到来。1970年に、玉の海とともに横綱昇進。大関在位21場所後の昇進は当時の新記録。1971年頃が最盛期であった。その後玉の海が急死、1人横綱となった北の富士も徐々に下り坂となり、前代未聞の不眠症理由の休場もした。現役晩年には、琴櫻も昇進したが共に30代前半で、20代の横綱輪島、大関北の湖が台頭して輪湖時代となっていた1974年に引退。直後に北の湖が横綱昇進。

引退後、井筒親方を経て九重親方として、1987年〜1988年頃の昭和末期の九重部屋全盛時代を作り上げた。

相撲協会で理事を務めたが、一門内の理事選談合に嫌気がさし、定年前に相撲協会を退職して、相撲解説者に転身した。

2023年以降、解説者として休場していたが、2024年7月14日令和六年大相撲名古屋場所初日に姿を見せたが、先述のように同年九州場所中の11月12日に、解説者現役中の82歳7ヶ月で亡くなったことが報じられた。

逝去前は最後の昭和戦中生まれの横綱経験者だった。

記録[編集]

  • 十両15戦全勝(1963年九州)- 北の富士以降、43年間記録者が出なかった。
  • 新入幕13勝 - 現在も最多記録タイ[注 2]
  • 大関昇進前3場所28勝 - 北葉山と共に大関昇進前最少勝利数。
  • 幕内対戦回数 - 対清國戦52回。昭和期の最多回数で、現在も9位タイ。
  • 横綱経験者の80代到達 - 栃ノ海に次いで5人目。なお、歴代横綱の寿命については、栃ノ海に三ヶ月及ばず惜しくも3位。

同時代の主な好敵手[編集]

  • 横綱 大鵬[注 3]
  • 横綱 玉の海
  • 横綱 琴櫻
  • 大関 豊山
  • 大関 清國
  • 大関 大麒麟
  • 関脇 長谷川
  • 平幕 貴ノ花[注 4]

後任[編集]

北の富士の没後、持ち場を引き継いだ人物。

  • 琴風浩一 - NHK解説者。新規就任の翌々日に北の富士が逝去し、実質引き継ぎ。

※ 中日スポーツの「はやわざ御免」については、生前に一度、愛弟子の八角信芳が「ぶちかまし御免」のタイトルで引き継いだが、理事長就任後、北の富士が再登板している。

演じた俳優[編集]

次の記録者[編集]

[編集]

  1. 2021年1月の栃ノ海晃嘉逝去後は最年長の横綱経験者であった。
  2. 後に陸奥嵐逸ノ城尊富士も記録。
  3. 学年でいえば、北の富士より1学年だけ上であるが、大鵬の幕内昇進や引退が早かったため、1世代上に扱われることが多い。
  4. 貴乃花光司の父の先代で、後に大関になる。「つき手・かばい手論争」など、対北の富士戦では際どい対戦が多かった。