出羽の花義貴
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出羽の花義貴(でわのはなよしたか)は元大相撲力士。本名は野村双一 (のむらそういち)。
来歴[編集]
青森県中泊町出身。従兄は元前頭の出羽ノ花好秀。
アマチュア相撲強豪の和歌山県庁への就職が決まっていたが、日大卒業見込時の全国学生選手権個人戦で拓殖大学の舛田茂(後の舛田山)を破って優勝した[注 1]ことから、プロでどこまで通用するか試したくなった。
周囲の猛反対を押し切って昭和49年大相撲春場所で幕下付出で出羽の花の四股名で出羽海部屋から初土俵を踏んだものの、負け越して翌場所三段目を経験、十両から幕下への陥落も経験する。そこから精進して、昭和52年大相撲九州場所で新入幕。そこから十両に一度も陥落することなく62場所幕内に在位した。
三賞10回、金星2つを獲得。関脇だった昭和57年大相撲春場所、昭和57年大相撲夏場所では2場所続けて横綱北の湖、若乃花を破り、大関候補にも浮上した。
昭和63年大相撲初場所で、十両陥落が確実になったのを契機に引退。年寄・出来山を襲名して部屋付き親方として後進を指導。協会で理事も務めた。
人物[編集]
関連項目[編集]
参考文献[編集]
注[編集]
- ↑ 舛田とは高校のインターハイの準決勝でも対戦。この時は野村が敗退し、舛田が高校横綱になったので、大学選手権でリベンジした格好となった。