天智天皇
天智天皇(てんちてんのう、626年(推古天皇34年) - 671年天智天皇10年12月3日)は、日本の第38代天皇。乙巳の変にて中臣鎌足とともに宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏を滅ぼした。その後孝徳天皇・斉明天皇のもとで改革を進める。斉明天皇亡き後も即位せずに政務を執る。668年に即位して天智天皇となる。
概要[編集]
蘇我氏を中臣鎌足と協力し滅ぼす。かつてはこのクーデターを大化の改新と呼んでいたが最近では、滅ぼした事績を乙巳の変と呼び、その後の改革を大化の改新と呼んでいる。 乙巳の変の後、皇極天皇は中大兄皇子に譲位を打診するが中大兄皇子は叔父の軽皇子を推挙、軽皇子は古人大兄皇子を推挙すると行った具合に、皇位を譲り合ったが古人大兄皇子が辞退し出家したため、軽皇子が皇位を嗣いだ。
しかし、中大兄皇子は皇太子となり実権を握り大化の改新を進めていく。国家を豪族の連合政治体制から天皇集権へと切り替えた人物として評価されている。「公地・公民」、「班田収授法」、「租庸調」等の制度を定めたといわれているが、全てが中大兄皇子、天智天皇の事績かどうかについては疑問視されている部分もある。
白村江の戦いには惨敗するも、戦いでの被害は地方豪族のほうが多く、地方豪族の力が失われ相対的に朝廷の力が大きくなった。
667年に人心一新のため飛鳥から近江に遷都する。668年に即位する。即位後の治世は短く5年で病没している。子の大友皇子を太政大臣にしたため、皇位継承問題が大友皇子と大海人皇子との間で発生し天智天皇の没後壬申の乱が発生する。
朝鮮半島との関係[編集]
660年に唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済救援のために大軍を派遣している。斉明天皇が救援中に崩御しているが即位はせず対唐・新羅連合軍との戦いを指揮する。しかし、白村江の戦いで大敗し朝廷の土台が危うくなる事態に陥る。唐・新羅の連合軍襲来に備えて大宰府を中心に巨大な城を構築する。対馬や筑紫に防人を配備し連合軍の動きを監視することになった[1]。
また、唐と新羅との関係改善にも努めた結果、唐も関係回復に応じることになった。
墓所[編集]
山科陵
系譜[編集]
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ “新発見 大宰府を守る土塁(PDF)”. 筑紫野市教育委員会 文化情報発信課 (2016年12月3日). 2017年11月16日確認。
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