長崎県
概要[編集]
県庁所在地は長崎市。面積は4,105.47km²。九州西部にある。[1]。
ご当地グルメにトルコライスがある。これはカツ、ピラフ、スパゲッティなどを一つの皿に盛り付けた料理である。また、原子爆弾が投下された長崎市に有名な平和祈念像がある。
隣接する県[編集]
陸上では佐賀県のみ接している。
地理[編集]
東西213km、南北307kmにおよぶ県域である。その中の陸地(総面積4,105.47km2、平成23年10月1日現在)は平坦地が乏しい。逆に、海岸線の延長は4,184kmにおよび、北海道につぎ全国第二位(北方四島を除くと第一位)の長さをほこっている。
東は島原半島があり、南西には長崎半島があり、南には橘湾、天草灘、西の東シナ海上には五島列島が、西北の海上には壱岐、対馬があり、変化に富んだ地形である。小面積の島が多いため離島の数も日本一である。
主雲仙山系、多良山系、国見山系があり、多良岳、国見山の両山系は佐賀県との分水嶺となっている。河川は各市郡ともすべて海に面しているので大きなものはなく、本明川、佐々川、相浦川、川棚川などがおもなものである[1]。
歴史[編集]
令制国でいうと、肥前国の一部(彼杵郡、高来郡、松浦郡の西部)、および壱岐国、対馬国に相当する。
室町時代は、北九州土着の少弐氏や足利一門の渋川氏が守護であった。戦国時代に有馬氏が台頭し、1545年頃の有馬晴純の代に肥前をほぼ統一した。しかしその後は佐賀の龍造寺隆信が領土を拡大し、1578年に九州北西部をほぼ平定する。その龍造寺氏も、1584年には薩摩の島津義久に滅ぼされ、1587年には豊臣秀吉の九州平定により戦国時代終了。
江戸時代には、平戸藩(壱岐国を含む)、大村藩、島原藩、福江藩、対馬府中藩が置かれた。また長崎は幕府直轄地とされ、清、オランダとの交易が唯一認められた港として発展した。
長崎県設置以降は以下の通り。
- 1869年6月:版籍奉還により長崎府を長崎県に改称。
- 1871年7月:廃藩置県で、長崎県の他、島原・平戸(壱岐を含む)・大村・福江・厳原の各県が発足。
- 1871年11月:府県統合で島原・平戸(壱岐を含む)・大村・福江の各県を統合。
- 1872年:対馬を編入。
- 1876年:三度に亘り、三瀦県から旧肥前国域を編入。
- 1883年5月:佐賀県を分立して現在の長崎県域が確定。
- 1945年8月9日:原子爆弾が長崎市街に投下される。
- 1957年7月25日:諫早水害が発生。
- 1982年7月:長崎大水害が発生(死者・行方不明者299人)。
- 1991年6月:雲仙普賢岳噴火災害が発生(死者・行方不明者43人)。
- 2008年3月:諫早湾干拓事業が完成[2]。
交通[編集]
鉄軌道[編集]
道路[編集]
高速道路[編集]
地域高規格道路[編集]
一般道路[編集]
空路[編集]
文化[編集]
スポーツ[編集]
- サッカー
V・ファーレン長崎がJリーグに所属している。
長崎県舞台の作品[編集]
長崎県の聖地[編集]
- AQUA
- 幻影ヲ駆ケル太陽
- ばらかもん - 福江島の旧富江町および旧三井楽町地域のみ
- 蒼の彼方のフォーリズム
メディア[編集]
放送[編集]
民放[編集]
1991年に長崎国際テレビが開局して民放テレビ局は4局になった。
アナログテレビ時代は、他県電波の受信が容易な地域が少なくなく、特に島原半島東部では有明海からの海上伝搬で、自県民放だけでなく、熊本・佐賀・福岡の民放テレビ受信が容易で「日本一の電波銀座」とされた。現在も名残で民放FMが同様に島原半島などで広域聴取が可能である。
ラ・テ兼営局の長崎放送は地方民放では珍しく、隣県の佐賀県にラジオ中継局を置いている。
NHK[編集]
テレビ、FMでは、県内のNHK長崎の中継局が充実しているが、ラジオ第1は壱岐、対馬にないため福岡局聴取となり、ラジオ第2は五島を含めた離島と島原半島に中継局が無いため、福岡局や大出力の熊本局聴取となっている。
新聞[編集]
県紙として長崎新聞があるが、ブロック紙の西日本新聞も長崎版を発行しており、壱岐・対馬のように県紙の勢いが弱い地域もある。
かつては離島地域に配慮して、テレビ欄には発行日翌日のテレビ番組も掲載されていた。
脚注[編集]
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