西日本新聞
西日本新聞(にしにっぽんしんぶん)は、日本の新聞社・西日本新聞社が福岡県を中心とした九州地方で発行する日刊新聞である。中日新聞、北海道新聞とともに、ブロック紙3社連合を形成している。
沿革[編集]
1877年(明治10年)筑紫新聞を発刊する。発行の中心人物は、筑後三池藩の藩士の家系にあった森泰であった。廃藩置県後に生まれた三潴県(現福岡県南部)の役人だった森は、「三潴県新聞」を発行した経験があった。三潴県は福岡県と合併し、福岡県職員をしていたが、退官後に「筑紫新聞」を発行した。筑紫新聞は国内最後の内戦となった西南戦争の戦況を緊迫した筆致で報じた。福岡の地元の地の利を活かし、通行する人々、軍人や官僚に取材して記事を書いた。当時の九州で西南戦争を報道した新聞は、福岡「筑紫新聞」、熊本「熊本新聞」、長崎「西海新聞」、大分「田舎新聞」の4紙であった。 1878年(明治11年)もうひとつの源流となる「めさまし新聞」が創刊された。
1979年(明治12年)めさまし新聞は筑紫新報と改題された。1880年(明治13年)、「筑紫新聞」と「筑紫新報」が合併し「福岡日日新聞」となる。 1907年(明治40年)、佐賀県内に佐賀日日新聞を発刊し、ブロック紙となる。1909年(明治42年)、熊本県内に熊本日日新聞を発刊する。1910年(明治43年)、佐世保日日新聞を発刊する。1911年(明治44年)10月24日付で10000号となる。編集長に菊竹六皷を抜擢する。1932年(昭和7)年、「五・一五事件」に対し、憲政擁護の立場から軍部テロを指弾。菊竹六皷編集局長の代表社説「敢て国民の覚悟を促す」を出し、軍部の威嚇が続いた。 1942年(昭和17年)、九州日報と合併し、8月10日付から「西日本新聞」となった。
現状[編集]
九州地方北中部で発行されており、福岡県では福岡市とその周辺、久留米市などの県南部で購読率が高いのに対し、北九州市などの県北東部(北九州・京築地区)では全国紙の毎日新聞に大きく差を付けられている。佐賀県でも鳥栖市を中心とした県東部で多くの世帯で読まれている。
かつては、島根県石見地方、山口県、南九州地方でも販売されていたが、石見地方は20世紀中、山口、沖縄両県は2009年3月、宮崎県と鹿児島県も2018年(平成30年)3月31日をもって、発行部数が最も少ない理由で発行・販売を休止した。
論調は左寄りである。スポーツ関連の記事は福岡ソフトバンクホークス関連が最も多い(紙面発行を停止した系列紙の西日本スポーツも同様に多かった)。
その他[編集]
1962年に読売新聞が九州に進出したことで、読売との関係が悪化し、1964年にフジ系に乗り換えたテレビ西日本 (TNC)との関係を強め、その後の九州全県のUHFテレビ新設に関与して、クロスネットながら、全県のUHF局をTNCと同じフジ系列に加盟させることに成功した。