長崎市

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ながさきし
長崎市
長崎県長崎市旗.png
市旗
日本国旗.png日本
地方九州地方
所属長崎県
人口419,728 人
面積405.86 km2
人口密度1,034 人/km2
公式サイトwww.city.nagasaki.lg.jp
備考県庁所在地

長崎市(ながさきし)は、長崎県に位置する地方公共団体の一つ。長崎県の県庁所在地であり、日本最古の貿易港であり、第2次世界大戦末期に原子爆弾が投下された都市でもある。

概要[編集]

江戸時代には、国際貿易港「出島」があり、古くから海外との交流があった地域である。

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地理[編集]

長崎市の夜景

長崎県の南西部に突出する長崎半島野母半島)の大部分を占める長崎県の県庁所在地である。日本最古の国際貿易港であり、異国情緒豊かな港町でもある。江戸時代、江戸からの距離は320里余りで、歩いて往復すると3か月を要したという。現在は新幹線特急を乗り継げば東京からは約9時間余り、空の便では1時間50分ほどで到着することができる。

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歴史[編集]

平和記念像。長崎市は太平洋戦争(大東亜戦争)末期、原爆投下を受けた。

この長崎市が事実上、産声を挙げたのは戦国時代元亀2年(1571年)のことである。当時、この地は深江浦(ふかえうら)と称されて大村純忠家臣娘婿である長崎純景(甚左衛門)が支配している寒村に過ぎなかった。しかしポルトガルなどは天然の良港として早くから目を付けており、純忠に南蛮貿易を行なうに当たって当地を開港するように要請した。純忠は家臣の友永対馬守に命じてこの地の町割りを行なわせ、最終的に島原・大村・文知・外浦・平戸・横瀬浦の6つの町を開かせた。これが長崎市の起源と言われており、この6つの町は現在の万才町のあたりと推定され、現在では県庁裁判所検察庁長崎県警本部などが建ち並ぶ官公庁街となっている。

これにより長崎は開港し、海外貿易の拠点として西欧の文明が次々と取り込まれた。同時にキリシタン伝道の中心地にもなって大いに繁栄を遂げた。しかし天正8年(1580年)に大村純忠が長崎並びに茂木をイエズス会に寄進し、天正12年(1584年)には有馬晴信が浦上を同会に同じく寄進したため、長崎は次第にポルトガルの植民地的性格を強めるようにもなった。天正15年(1587年)に九州征伐に乗り出して薩摩国島津義久を降して九州平定を成し遂げた豊臣秀吉は、その帰途において長崎がまるでポルトガルの領土のようになりつつあったのを見て激怒し、大村純忠や大友宗麟キリシタン大名がちょうどこの頃に相次いで病死したこともあり、伴天連追放令を発令してキリシタンを追放、禁教とし、長崎・茂木・浦上などのキリシタンの所領は没収して自らの蔵入地として、龍造寺氏家臣で執政を務めていた鍋島直茂代官に命じて差配させた。秀吉は長崎の貿易港としての重要性は認識しており、文禄元年(1592年)には長崎奉行所を設置し、自らの側近である寺沢広高を新たな長崎奉行に任命した。

秀吉の死後、徳川家康が政権を掌握して江戸幕府は開かれるが、家康も秀吉同様に長崎の貿易港の重要性は認識しており、ここを天領として江戸から派遣する長崎奉行に実際の差配を行なわせた。家康の孫で第3代征夷大将軍徳川家光の時代である寛永12年(1635年)には、江戸幕府の鎖国政策への転換のため、日本の海外貿易は長崎1港のみに限られることになり、以後の長崎は日本において唯一海外に開けた窓口となった。そのため、長崎は特異な発展を遂げることになる。元亀2年(1571年)の開港当時は人口が記録上では1000人にも満たなかったようであるが。江戸時代中期の元禄9年(1696年)の記録では内町26、外町54、戸数は1万1257戸、人口は6万4522人と125年前とは比較にならないほど成長を遂げているのである。これは貿易港として成長を遂げた長崎に各地からの移住者が相次いだためと見られている。また、江戸時代中期頃からは海外の優れた文化を知りたいために日本各地から医師知識人が長崎を目指すようになり、長崎は一種の希望の地のようにまで見られるようになった。

しかし幕末において江戸幕府が開港政策に改め、明治時代になると、唯一の貿易港だった長崎の特権的な性格は完全に失われた。確かに長崎は天然の良港だったが後背地が無い上、長崎自体が輸出産業に乏しかったこともあり貿易港としてはこの時代に一気に衰退してしまった。そのため転換政策を取らざるを得なくなり、三菱重工業の造船所を中心とした産業都市として生まれ変わることになった。長崎市の工業はこの市が持つ有力な港湾を利用しての造船所の立地、大正時代における製鋼、電気機械などおよび中小造船所の立地に始まり、それらの下請け企業が形成されてきたことで完成した。すなわち、三菱重工業長崎造船所を中核として、これに関連した金属・機械系の工業を中心として発展を遂げたのである。そのため、昭和56年(1981年)の統計で造船に携わっている人口は製造業従業員数のおよそ64パーセントを、工業製品出荷額はおよそ78パーセントを占めており、長崎市は間違いなく「造船の町」と言える状態だった。しかし、昭和から平成に時代が移り変わる頃に不況により造船業の低迷状態が訪れたため、合理化や縮小などの改革も行なわれている。

また、太平洋戦争終戦直前の昭和20年(1945年8月9日原子爆弾が投下され、1945年末までに当時の人口の3割におよぶ74,000人が亡くなるなど、痛ましい犠牲が多く出た都市としても忘れてはならない。

長崎市の名所・施設など[編集]

関連項目[編集]


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