少弐氏

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少弐氏(しょうにし)とは、鎌倉時代九州北部の守護。鎌倉時代には筑前国肥前国豊前国壱岐国対馬国の守護職を兼ねて北九州に一大勢力を誇った。しかし一族の内訌や大内氏の侵略などにより勢力が衰え、戦国時代には肥前など一部を領するまでに没落し、家臣の龍造寺隆信の離反などもあって衰勢を挽回できず、永禄2年(1559年)に滅亡した。

概要[編集]

起源[編集]

少弐とは元々、律令制における九州の大宰府の官職名である[1]太宰大弐の次に位置する太宰少弐がそれで、定員2名の官職だった[1]。長官は帥(そつ)といい、次官が大弐・少弐である[1]。この官職にある者が律令制の時は九州の行政を担当したり、外国の使節や渡来人の接待、海上防備などを行なっていた[1]

さて、この官職を苗字にして名乗るようになった少弐氏だが、元の姓を武藤氏といい、藤原秀郷の流れを汲み、奥州藤原氏小山氏結城氏大友氏などと並ぶ名門であった[1]武藤景頼の時に武藤氏を称するようになり、それまでは藤原姓を名乗っていた[1]。ただし一説に武藤姓を称し始めたのは景頼の子・武藤頼平とも言われる[1]。また、秀郷流ではなく、平安時代中期に摂政関白として大いに権勢を振るった藤原道長の後裔とする説もある[1]

武藤氏は平安時代末期の治承・寿永の乱源頼朝に属して戦功を立てたため、建久7年(1196年)に太宰少弐に任命された[1]。この時の武藤家の当主は頼平の子・少弐資頼で、資頼は太宰少弐の官職に就任したのを契機に姓を少弐に改める[1]。以後、少弐氏は太宰少弐の官職を世襲するようになった。また、鎌倉時代に資頼は筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の守護職を兼任して事実上、北九州に君臨する大守護となった[1]

元寇が始まると、資頼は息子の少弐経資少弐景資らと共に九州の守護・地頭を指揮して軍と戦い、資頼は戦死したものの少弐側も敵将・劉復享を討ち取るなど活躍して元軍を追い返すのに一役買っている[1]。ここまでが少弐氏の全盛期であった。

衰退[編集]

元寇で戦功を挙げた経資・景資兄弟であったが、霜月騒動が影響して家督争いとなり、景資は兄の経資によって殺害された[2]

鎌倉時代末期になって後醍醐天皇の討幕運動が九州にまで波及すると、それまで鎌倉幕府に従っていた少弐氏は後醍醐天皇側に寝返って大友氏島津氏と共に鎮西探題北条英時を攻撃して滅ぼした。しかし後醍醐天皇による建武の新政が失敗し、足利尊氏が後醍醐天皇の軍勢に敗れて九州に落ち延びて来ると、少弐貞経は尊氏に与した。その子の少弐頼尚も尊氏に与した[2]。ところが頼尚の子の少弐冬資室町幕府から九州探題として派遣された今川了俊に従い、その弟の少弐頼澄懐良親王に属するなど、少弐家は再び内部分裂を起こした[2]。結局、この際には冬資が了俊に殺され、頼澄が少弐家の当主となって室町幕府に帰参している[2]

室町時代中期になると、周防国大内氏の圧迫を受け始める[2]大内義弘の侵略には押され、その跡を継いだ大内盛見は大友氏と協力して何とか撃退して永享3年(1431年)に戦死させたものの、盛見の跡を継いだ大内持世に再度侵攻されて当時の当主・少弐嘉頼対馬国に追いやられた。以後も大内氏の侵略は続き、大内氏が足利将軍家に太宰大弐の官職を望んで官位でも少弐氏を圧倒しようとするなど[2]、少弐氏は大内氏の侵略によって政治的にも軍事的にも衰退させられてゆく。

応仁元年(1467年)には大内政弘によって少弐教頼が殺され、この敗死により少弐氏は大宰府の支配権を失って肥前に逃走する[2]文明15年(1483年)に教頼の遺児である少弐政資が肥前で再挙し、大友政親と組んで延徳3年(1491年)に九州探題の渋川氏を攻めて一時的に大宰府の奪還に成功した[2]。しかし、大内政弘の子・大内義興の侵攻を受けて明応6年(1497年)に政資は敗死[2]。政資の遺児・少弐資元は大友政親の弟・大友親治を頼って落ち延びた[2]

滅亡[編集]

資元は大友家の支援を背景にして復活を図り、家臣の龍造寺家兼の活躍で享禄3年(1530年)の田手畷の戦い大内義隆の大軍を撃ち破るなど、一時的に挽回した時期もあった。しかしこれを機に龍造寺氏が大内氏の懐柔を受けるようになり、天文4年(1535年)に資元はやむなく大内義隆と和議を結ぶ。しかしこの和議は謀略であり、大内義隆は背景にある軍事力を楯にして少弐氏の領土を全て没収してしまい、これにより資元は自殺し、少弐氏は没落した。

資元の子・少弐冬尚は御家再興を目指して積極的に活動し、大内氏に懐柔されて寝返った龍造寺氏に対しては家臣の馬場頼周の謀略で龍造寺一族の大半を抹殺するなどした。しかしこのため、龍造寺家兼の曾孫・龍造寺隆信と対立するようになり、筑後国に追放された。一時期は回復を図りもしたが、永禄2年(1559年)に龍造寺隆信に勢福寺城を攻められて冬尚は自殺し、この時点で大名としての少弐氏は滅亡した。

以後は冬尚の弟の少弐政興や遺臣らによる再興運動が繰り返されたが、龍造寺隆信によって悉く鎮圧されて少弐氏は歴史の渦に消えていった。

歴代当主[編集]

  1. 武藤資頼
  2. 少弐資能弘安の役で活躍したが、壱岐にて少弐資時と共に戦死した。
  3. 少弐経資
  4. 少弐景資長崎県松浦市鷹島に記念碑がある。
  5. 少弐盛経
  6. 少弐貞経
  7. 少弐頼尚
  8. 少弐直資
  9. 少弐冬資
  10. 少弐頼澄
  11. 少弐貞頼
  12. 少弐満貞
  13. 少弐資嗣
  14. 少弐嘉頼
  15. 少弐教頼
  16. 少弐政資
  17. 少弐資元
  18. 少弐冬尚:大名としての最後の当主

その他一族[編集]

庶家[編集]

少弐氏方の人物[編集]

少弐支族[編集]

朝日氏

横岳氏

馬場氏

筑紫氏(支族ではないとする系図もある)

その他[編集]

肥前小田氏

神代氏

江上氏

多久氏

宗氏

その他

外部リンク[編集]

参考文献等[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l 『戦国大名106家、最強の系図』(小和田哲男著。新人物往来社。2009年)308頁。
  2. a b c d e f g h i j 『戦国大名106家、最強の系図』(小和田哲男著。新人物往来社。2009年)310頁。