三好義資
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三好 義資 みよし よしすけ | |||||||||||||||||||||||
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三好 義資(みよし よしすけ)は、戦国時代の人物。三好長慶の嫡孫で三好義興の嫡男。左京大夫を称したとされる。子に資信、義紹。
概要[編集]
義資が幼い頃に父・義興が永禄6年8月25日(1563年9月12日)を以って謎の死を遂げたため、嫡流であるにもかかわらず幼少であるため、家督を継げず、長慶の甥である養嗣子・三好義継が継いだ。その後の義資の行方は不明となっている。
若年にして消息が不明なため、三好義資について書かれた史料は、皆無に近い状況で、義興の嫡男ということしか分かっていない。ただ義資は、所縁のあった安養寺と米子城主・中村一忠の家老となっていた三好一族の横田内膳を頼り米子に移り住んだといった伝承も有る。しかし慶長8年(1603年)の米子騒動で横田一族は討たれ、義資の息子・義紹も討たれてしまう(義資はこの時、すでに亡くなっていたと思われる)。
その後、生き残った義紹の長男・義信は姓を稲田に変え帰農し、次男の長政は姓を変えず町人となっている。
こんな人物が本当にいたのか?[編集]
上記の記述はWikipediaにある三好義資の記事である。しかし、こんな人物が本当にいたのか。参考文献も無く平成19年(2007年)の初版[1]から16年も放置されているが、非常に怪しいと言わざるを得ず、創作されている可能性がある。
- 資料において見てみると、人物叢書『三好長慶』を著した長江正一は、「三好義興には妻はいたが子は無かった」と述べている。
- 一次史料では、三好氏の重臣である松永久秀が永禄6年(1563年)6月22日、6月23日に岩成友通に宛てて書状を出しているが、その中で次のように述べている箇所がある。
「(義興の病を知り)取り乱して無念と戒めながら、弱冠22歳で子供がいない義興の跡目についても覚悟しておくべきだが、病状は隠密にすべし」(「柳生文書」『戦三』893、894)
以上から、「三好義資」なる人物がいたのか非常に疑問である。そもそも、義興に子息がいたならば、仮に幼少でも嫡流であり、しかもこの時点ではまだ祖父の長慶が健在なのだから、長慶が盛り立てれば済む話であり、義興の没後にわざわざ弟・十河一存の息子・義継を養子に迎える必要などない。以上から、これはWikipediaによる創作なのではないかと思われる。
参考文献[編集]
- 天野忠幸 『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』 平凡社〈中世から近世へ〉、2018年。 。
- 長江正一 『三好長慶』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年4月(原著1968年)、新装版。ISBN 978-4-642-05154-5。