三箇頼照

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三箇 頼照(さんか よりてる、永正15年(1518年) - 文禄4年7月13日1595年8月18日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名河内国三箇城主。キリシタン大名であった。三好氏織田氏明智氏豊臣氏に仕え、秀次事件に連座して自殺した。

Wikipediaの三箇頼照の記述[編集]

Wikipediaにおいては「大和国(現・奈良県)の宇智郡土豪出身で畠山政長に伴って河内に進出したという説あり(天理参考館会誌)[1]。三好長慶に仕え、飯盛山城の支城である三箇城(現・大阪府大東市三箇)の城主となった。永禄5年(1562年)、飯盛城でロレンソ了斎の説教を聞いてキリシタンになった73人の武士の1人(ルイス・フロイス『日本史』)とされる、洗礼名はサンチョ。以後、熱心なキリシタンとなり、自分の領内に教会を建て、多くの領民をキリシタンに改宗させた。最終的には、本能寺の変に際して、明智光秀側についたため、羽柴秀吉方に攻め滅ぼされた」と無責任な記述があるが、生没年も経歴もそこそこはっきりしており、Wikipediaが信頼するに足らないものであることを示す証左の1つになっている。

なお、その後にEnpediaの当記事を見てか、大規模な改編が行われたが、それでも信頼に足らない記述を繰り返している有様である。

略歴[編集]

姓は初め「白井」であった。三箇については史料によって「三ケ」と書かれている。キリシタンだったので洗礼名を持っており、こちらは「サンチョ」である。

はじめ、河内国三箇城主として三好氏に仕え、白井備後守と称していた。このことから受領名は備後守と見られる。畿内の武将の中では最も古いキリシタンの1人であったと『耶蘇年報』『耶蘇通信』に記録がある。なお、三箇城主時代に2000人の部下を率いていたとあるため、多少の誇張があることを考えても相当な勢力を有していた可能性がある。

父に関しては三好長慶秘書を務めたとされ、やはりキリシタンで「サンゼス」という洗礼名を持っていたという(『切支丹大名記』)。ただ、父親の日本名については不詳である。

三好長慶の死後は三好義継に仕えたと見られるが、天正元年(1573年)の若江城の戦いにおいて義継が織田信長の重臣・佐久間信盛の攻撃により滅ぼされた後も三箇城主としての地位を保っていることから、義継を裏切り信長に味方したものと思われる。信長の命令で若江三人衆の下に配属され、佐久間信盛の指揮に従うことになった。天正5年(1577年)、若江三人衆の1人である多羅尾綱知の讒言を信じた信長によって危うく誅殺されそうになるが、信盛の仲介で助命されて所領も安堵されている(『耶蘇通信』)。

天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で信長が明智光秀に殺害されると、光秀から河内1国と馬一頭分の黄金を約束されて明智氏に属する。しかし、中国大返しを果たした羽柴秀吉が直後に山崎の戦いで光秀を破ると、三箇城を捨てて逃亡した(『耶蘇年報』)。

その後、罪を許されて秀吉の甥・羽柴秀次に仕える。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて羽柴方として参戦していることから、早くに罪を許されていたようである(『水野勝成覚書』)。天正15年(1587年)に秀吉の九州征伐が完了すると、秀吉により伴天連追放令が出されているが、頼照は変わらずキリシタンとして活動したとされている(『耶蘇年報』)。天正20年(1592年)6月の秀次の陣立書において頼照の名が見られる(『前田家文書』)。

文禄4年(1595年)に秀次事件が発生すると、秀次の家臣であったことから連座してしまい、秀次死去のわずか2日前に切腹した。享年78。この際、妻も頼照の後を追って殉じた(『天正事録』)。

ルイス・フロイスが永禄10年(1567年)の時点で頼照を「50歳」と紹介していることから、恐らく永正15年生まれと思われる。

子に三箇頼運がおり、彼は罪に連座せずに済んだようで筒井定次の家臣になっている。

人物像[編集]

かなり敬虔なキリシタン大名だったようで、キリスト教関係の資料では元亀天正年間にかなりの数の記録が見られる。ただ、宣教師を保護したりしたことから誇張して書かれている可能性も否定はできない。『耶蘇年報』『耶蘇通信』によると三箇の領内には1500人、あるいは4000人のキリシタンがいたとされ、頼照は孤児や未亡人を保護することに熱心だったという。

脚注[編集]

  1. この時点がそもそもありえない。畠山政長は明応2年(1493年)に死去しており、そこにもし頼照がいたなら信長の時代には相当な高齢で本能寺の時点で100歳を優に超えている。