松永氏
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概要[編集]
- 松永氏一族の、松永三五左衛門清秀は、三人の息子が居る。
松永三五左衛門清秀の長男(大和松永氏)[編集]
- 松永三五左衛門清秀の長男の、松永弾正久秀は、
松永弾正久秀の経歴[編集]
松永久秀は畿内で勢力を誇った三好長慶の祐筆として仕えたのを皮切りに、そこから台頭して三好長慶の側近・重臣に伸し上がり、攝津国兎原郡瀧山城(現在の兵庫県神戸市中央区葺合町)主となる。
- 三好家中では永禄年間に三好実休、三好義興、十河一存、安宅冬康ら重鎮が次々と没した。
- これは一説に松永久秀による謀殺とする説もあるが定かではなく、このために松永久秀の存在が一気に急上昇した。
- 永禄7年(1564年)に三好長慶が死去すると、その後の三好家中における政権争いで三好三人衆と対立し、奈良東大寺大仏殿を焼き払う行動にまで出ている。
- さらに室町幕府の第13代将軍・足利義輝を暗殺したが、その弟の足利義昭を奉じて上洛した美濃の織田信長に敗れて服従した。
さらに信長包囲網が敷かれて織田信長が危機的状況に陥ると、松永久秀は、織田信長から離叛して織田方を攻撃した。
- しかし、元亀4年(1573年)4月に武田信玄が死去すると織田信長の反撃が始まり、浅井長政や朝倉義景、そして足利義昭らが次々と滅ぼされ、松永久秀は、織田信長に降伏して再度の服従を許された。
- ただし、所領はほとんど没収され、佐久間信盛の与力とされた。
織田信長は嫡子・織田信忠を総大将とする大軍を送り込み、松永久秀に降伏を呼びかけるが応じず[注 1]、松永久秀の孫で、織田信長に人質として出されていた男子[注 2]は処刑された。
- そして、天正5年(1577年)10月10日に、大和国平群郡信貴山城を織田軍に攻められた松永久秀は、
- 茶釜の古天明平蜘蛛と共に爆死すると云う壮烈な最期を遂げ、ここに戦国大名としての大和松永氏は滅亡した。
- この際、松永久秀の嫡子・松永久通も死んだので、戦国武将としての大和松永氏も完全に滅亡した[注 3]。
松永貞徳は、細川幽斎や里村紹巴らに連歌を学び、後に貞門派を開いた。松永貞徳の子・松永尺五は儒学者として知られ、その弟子が有名な木下順庵である[1]。
松永三五左衛門清秀の次男(丹波松永氏)[編集]
- 丹波國船井郡八木城城主で、丹波國守護代・内藤彦五郎國貞の娘婿に成った。
- 松永甚介長頼は、永禄八年(1565年)八月二日に、
松永三五左衛門清秀の三男(肥前松永氏)[編集]
- 天正五年(1577年)十二月に、釜蓋城合戦で、龍造寺氏が劣勢に成った時に、
- 長刀を持ち『松永弾正の弟』だと名乗って、千々和氏の軍勢に突撃して討死した。
その他の松永氏[編集]
大隅に松永氏が存在し、こちらは姶良郡松永(鹿児島県姶良郡隼人町、現在の霧島市)発祥で、藤原氏の末裔を称した[1]。
現在では東海地方と九州地方に多く見られ、特に長崎県に多く見られている[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 肥前叢書・第二輯(青潮社、1973年)
- 京都府福知山市史・第二巻(福知山市史編纂委員会、1982年3月)
- 松家とその一族(松永年雄著、晃洋書房。1989年11月)
- 佐賀県近世史料・第一編第一巻(佐賀県立図書館出版、1993年)
- 日本名字家系大事典(森岡浩編、東京堂出版。2002年)
- 五州二島の太守龍造寺隆信(川副義敦著、佐賀新聞社出版、2006年)
外部サイト[編集]
- 紀氏のルーツ - 松永美智子のサイト
- 松永氏のルーツ・松永氏の県別、地名と人名(15) - 松永美智子のサイト
- 松永氏のルーツ・松永氏関係の年代別 - 松永美智子のサイト