天霧城
天霧城(あまぎりじょう)は讃岐国、現在の香川県善通寺市吉原町と三豊市三野町、仲多度郡多度津町の市町境にあった中世日本の城(山城)。国の史跡。別名・雨霧城または尼斬城。
概要[編集]
多度津町の南東端、善通寺市との境界に盛り上がる海抜360メートルの天霧山に存在した山城である。築城については大化の改新の頃に山頂に狼煙台が設置されたのが起源といわれるが、実際に城砦としての施設が建築されたのは700年後の正平19年/貞治3年(1364年)であり、当時の香川景房が居城にしたという。景房は細川頼之に仕えてその配下の四天王の1人に列するほどの重臣で、多くの戦功を立てて讃岐西部の支配を任されたという。以後、天霧城は香川氏の居城として君臨した。Wikipediaでは天霧城を「詰めの城」などと書いているが、実際には居城なのでこれは誤りである。
安土桃山時代になり、四国制圧を目指す土佐国の長宗我部元親が侵攻してくると、当時の香川元景は元親に抵抗し、その抵抗に手を焼いた元親は水攻めの持久戦をとったが、城は落ちなかった。諦めた元親は撤退しようとしたが、その際に1人の尼が現れて元親に「城内には水は無い、水があるように見えるのは、実は白米を流してごまかししているだけである」と暴露し、これを知った元親が城を攻めると天霧城は落城した。元景は元親に降伏し、元親の次男である香川親和を養子に迎えた。後にこの事を知った香川氏の家臣はその尼を探そうと躍起になり、その尼と思しき者を見つけ出して斬殺した。そのため、この城は別名を「尼斬城」というのである。また、山の名も「尼斬山」と書かれる場合もある。なお、現在も天霧山の山中に「白米流し谷」と称する伝説の遺跡が残されている。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐で攻撃されて天霧城から退去して土佐に戻り、この際に廃城となった。
現在は山頂部に本丸跡の平坦地が残り、山中の至る所に井戸や石垣、空堀などが遺存している。国の史跡に指定されている。