十河氏

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十河氏(そごうし)とは、日本氏族武家である。戦国時代勇将・『鬼十河』で知られる十河一存やその養子十河存保らで著名である。通字は「」。

概要[編集]

讃岐国山田郡蘇甲郷(現在の香川県高松市十川)の発祥で、神櫛王の子孫とされる。讃岐国の土豪として当国の守護大名である細川氏の家臣となる。鎌倉時代後期の永仁元年(1293年)に阿波国の守護である小笠原常春の家臣に十河元清の名が確認される[1]

戦国時代、畿内三好政権を樹立した三好長慶の弟・一存十河景滋養子となって十河氏を継承。以後、畿内や四国など各地を転戦して武名を馳せ、『鬼十河』の異名をとった。一存は長慶の忠実な弟として政権の拡大に貢献したが、永禄4年(1561年)に若死にしてしまう。なお、一存の実子・義継は長慶の養子となって三好宗家を継承したため、一存の後継者には甥の存保(一存の次兄で長慶の次弟である三好実休の次男)が選ばれた。

一存の死で三好政権の崩壊が始まり、その後重鎮が相次いで没したことで三好政権は織田信長により滅ぼされ、存保は信長に服従。同時期から土佐国長宗我部元親による阿波侵攻なども始まり、存保は信長の後ろ盾を得て抗戦する。しかし、信長が本能寺の変で死去すると後ろ盾を失った存保は四国から追われ、羽柴秀吉の庇護下に入る。秀吉の四国征伐後、存保には改めて讃岐国で所領を与えられて大名として復帰するが、天正14年(1586年)12月の戸次川の戦い長宗我部信親らとともに島津家久の前に敗死した。

存保には息子があったが、秀吉は幼少を理由にそれらの相続を認めずに所領を没収し、十河氏は改易となる。遺児たちはいずれも不遇な人生を送り、存保の次男・存英大坂の陣で戦死したのを最後に消息は不明となっている。

現在は香川県から愛媛県東予地方に多く存在するであり、特に高松市周辺に多い。なお、高知県では「とうごう」と読んでいる[1]

系譜[編集]

 凡例 

太線は実子、細線は養子。 基本的に左から出生順。 右肩の数字は出生順(都合で逆転した場合)。

景行天皇
神櫛皇子
(略)
浦津大人
高麿
長須麿
高晴
直高
永成
元重
植田政景三木高成神内政成
景時経時
景直
景勝
景光
景信
景親
景貞
景顕
景保
十河吉保3三谷景之2神内景辰1
刑保
儀稠
安推
康仲
泰宗
寧定
存景三好氏
存春三好元長
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金光一存長正4
(十河一存)
安宅冬康3之虎2長慶1
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存保十河重存
(三好義継)
十河存之松浦信輝長治政泰
(十河存保)
義興義継
千松丸存英坂東保長

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b 森岡「日本名字家系大事典」P309

参考文献[編集]

関連項目[編集]