石見銀山
石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市大森町にかつて存在した銀山である。
概要[編集]
この銀山は大田市の南西、銀山川に沿った山峡に存在した。
戦国大名による熾烈な争奪戦が繰り広げられた後、江戸時代には江戸幕府の支配下に置かれ、大正時代に閉山となった。
現在は釜屋・倉本・福神山・龍源寺・新横相・新切・大久保の7つの間歩跡と、代官所跡、伝安原備中霊所、安原備中墓、大久保石見守墓、天正在銘の宝鏡印塔基壇、佐毘売山神社、山吹城跡の14か所が石見銀座院遺跡として一括して国の史跡に指定され、さらに世界遺産に認定されている。
そのほか、石見銀山資料館などもあり、様々な資料などが展示されている。
末期は、銀の産出量が減ったため、銅の産出が中心だった。
歴史[編集]
有名な銀山であるにも関わらず、実を言うとその始まりについての史料はほとんど存在しない。鎌倉時代後期の14世紀初頭に石見国の守護・大内弘幸が開発したのがその起源と見られるが、実情がよくわからない。
本格的な採掘は戦国時代の大永6年(1526年)、出雲国鷺浦の銅山師・三島清右衛門とその銅鉱石を買っていた博多商人の神谷寿貞が新たに間歩を開いてからのことと言われている。この7年後、寿貞は灰吹法による精錬を開始し、これにより産銀が飛躍的に増大した。だがそれは、財政を潤わすことに重点を置く戦国大名による争奪戦の開始でもあった。
当時、この銀山は大内義隆により支配されており、義隆は銀山の守備のために山吹城を築城する。しかし大内氏と敵対する尼子経久・尼子晴久らもこの機を見逃さず、さらに安芸国の毛利元就、そして石見国の小笠原氏など諸氏が入り乱れて争奪戦を繰り広げ、永禄5年(1562年)に毛利元就が最終的に奪取したものの、そのやり方は城主の本城常光を謀殺するというもので、この謀殺に激怒した石見国衆が元就に数年規模の反旗を翻す事態にまで陥っている。
豊臣秀吉の時代になると、この銀山は豊臣政権の蔵入地に編入され、秀吉没後の関ヶ原の戦いで徳川家康が覇権を握ると徳川氏の手に握られ、以後は江戸幕府の天領下に組み込まれて石見銀山領4万8000石は大森代官により統治された。慶長6年(1601年)からは家康から初代石見銀山奉行に任命された大久保長安(石見守)の片腕であった安原備中が釜屋間歩という間歩を開いて1年間に3600貫という運上銀を産出したと言われるほど、この銀山の産出量は当時の日本において最大規模に及ぶものであり、日本国外にも「ソーマ(佐摩)銀」として知られた。
だが、銀山は尼子氏・大内氏の争奪戦から始まる産銀によってほとんどが掘り尽くされており、江戸幕府がその恩恵を受けれたのは江戸時代前期の寛永年間(1624年 - 1644年)までであった。以後、産銀量は減少して明治時代を迎え、藤田組へ民間払下げしてからも細々と銅を含めた採掘が続けられていたが、大正12年(1923年)に全山閉鎖となった。その後も再開が試みられたが、収益が有望な鉱脈に当たらないと判断され、21世紀に採掘を完全に放棄した。