北陸トンネル火災事故
北陸トンネル火災事故(ほくりくトンネルかさいじこ)は、1972年(昭和47年)11月6日に発生した鉄道事故である。
一連の経過[編集]
前日、11月5日の夜に大阪駅を出発した青森行夜行急行列車きたぐに号(EF70 62牽引、寝台車・座席車・食堂車15両編成)は定刻より2分ほど遅れた11月6日未明の午前1時4分に敦賀駅を発車し、北陸トンネルへと入った。午前1時13分頃、編成後よりの3号車に連結されていた食堂車(オシ17 2018)の喫煙室で火災が起きているのを食堂車従業員が発見。通報を受けた車掌の非常ブレーキ操作と機関士の緊急停止措置に基づき、列車は敦賀側の入口から4.6km地点で停車した。
乗務員は対向列車を現場に近づけさせないために列車防護手配を取り、上り線の軌道へ軌道短絡器[注釈 1]を設置。その後消火活動に取り掛かるが、鎮火不能と判断され、火災車両を切り離してトンネルから脱出することとした。
午前1時24分、食堂車から後ろの郵便車と1・2号車の切り離し作業を終え、トンネルの出口に位置する敦賀・今庄の両駅へ救援を要請。続いて食堂車から前側の13号車から4号車の切り離し作業へと入る。しかし火勢は増々激しくなり、トンネル内の照明も信号確認の邪魔になるからと落とされていたために切り離し作業に手間取り、1時52分頃架線停電のために電気機関車牽引のきたぐには脱出不能となった。
深夜帯の火災ということで乗客の殆どが寝静まっていたことと、電化トンネルで排煙設備が整っていなかったために避難救助作業は難航。救援列車もきたぐに号から命からがら避難してきた一部の乗客をきたぐに号から離れた場所で収容出来たに留まり、きたぐに号まで近づくことが出来なかった。
事故現場からおよそ2km手前の木ノ芽信号場[注釈 2]に大阪行の夜行電車急行立山3号(475系使用)が信号の停止現示を確認し、停車していた。午前2時過ぎに信号が進行を現示したため、立山3号の運転士は不審感を感じつつも列車を出発させた。[注釈 3]300m程進むときたぐに号から避難してきた乗客を発見し、225人の避難者を立山3号へ収容。しかし車内に煙と異臭が充満し始めたため、立山3号の乗務員はこれ以上の避難者収容を危険と判断し、収容作業を打ち切って上り線を逆走してトンネルの今庄方へ脱出した。
この火災事故で指導機関士1人と乗客29人の計30人が死亡。死因は29人が一酸化炭素中毒で、残る1人は避難中に水の溜まった排水溝に転落したことによる溺死と断定された。負傷者も714人にのぼった。
火災原因[編集]
火元が食堂車ということで
- 調理室の石炭レンジ
- 喫煙室のタバコの不始末
が疑われたが、後の調査で電気暖房装置のショートと判明した。
事故後[編集]
この事故を教訓として、地下鉄や長大トンネルを走行する車両の難燃・不燃化を強力に推し進め、自動消火装置を充実させた。一方で、根室本線旧線などで行われた実車を使用した大規模な燃焼実験の結果により、トンネル内・橋梁上・高架区間を走行中に火災を発見した場合はその場に停車せず、火元車両の貫通扉・窓・通風器を全て閉じて走行を続け、通過後に安全に消火できる場所に停車して、速やかに脱出するよう運転規程が改められた。
当初、火災の原因として石炭レンジが疑われたためにオシ17を含む石炭レンジを装備する旧型食堂車は一斉に営業運用から外され、比較的新しいオシ17については一部が教習車のオヤ17形へと改造されたものの、裁判の証拠品として押収されたオシ17 2018を除き1974年までに形式消滅となった[注釈 4]。
副次的な影響として、床下分散型電源装置を備えた14系寝台車の増備が一時止められ、集中電源方式採用の24系寝台車が新製された。
悲惨な火災事故の現場となったきたぐに号は、食堂車の連結が無くなり、使用車両を12系+旧型寝台車→12系+20系→14系座席車+寝台車と変更しながら1985年3月のダイヤ改正で583系を使用して電車化。国鉄分割民営化を経て2013年の列車廃止まで運転が継続された。
その他[編集]
この事故の3年前の1969年12月、北陸トンネル内で上り特急「日本海」が火災を起こしたが、当時の機関士は「トンネル通過後の消火」を判断して緊急停止せず、火災車両のみの損傷で済んだ一方、運転士が規則違反として処分されたが、「きたぐに」の事故で、当時の「日本海」の運転士の判断が妥当だったことが改めて証左され、処分歴も抹消された。同様のケースが1945年8月14日の日本本土空襲でも起きた。
関連項目[編集]
- 2021年京王線車両放火事件 - 半地下駅の布田駅が事件現場となった事件。
脚注[編集]
鉄道での事件・事故 |