山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故
山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故は、 1961年(昭和36年)12月29日に発生した鉄道事故(列車衝突事故)である。
一連の経過[編集]
事故当日は大雪の影響で通信障害が発生。通常の閉塞運転が不可能となったため、隔時法と呼ばれる先行列車との間隔を空けて続行させ、後続列車は目視のみで先行列車との追突を防ぐ方式で運行を行っていた。なお隔時法では最高速度が35km/h以下に制限される。
山陽本線西宇部(現・宇部)-小野田間で、東京発長崎行下り寝台特急「さくら」(20系客車使用)に2時間57分遅れで運行していた山口発博多行気動車準急「あきよし」(キハ55系使用)が追突し、双方の列車で50人の重軽傷者を出す被害となった。死者が出なかったのは20系客車の軽量構造が衝撃を吸収し、客室部分の損傷を最低限に留めたため。
事故原因[編集]
事故原因は準急あきよしのスピードオーバーであった。本来隔時法施行中は最高速度を35km/hに制限し、先行列車を目視で視認しながら接近しすぎた場合には減速することが求められる。しかしあきよしの運転手は45km/hで運行し、さくらの最後尾80mまで接近した段階で非常ブレーキを扱うも間に合わなかった。
事故後[編集]
隔時法はこの事故を機に廃止された。
20系客車の損傷が激しく、修理には時間を要することになったが、当時は予備車が確保されておらず付属編成6両分の客車が不足。そのため急遽旧型客車の国鉄10系客車や国鉄スハネ30形客車などをかき集め付属編成を組成して、修理完了まで20系と併結してしのいだ。
なおこの編成は「うばざくら」の通称で呼ばれ、貫通幌の互換性や暖房の引き通しの問題から付属編成は常に機関車の次位に連結されていた。
急行(準急)「あきよし」はその後も運行を継続したが、1975年3月の山陽新幹線博多開業に伴い、山陽本線の小郡〜厚狭間から撤退した。
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