北陸トンネル

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北陸トンネル (ほくりくとんねる)は、ハピラインふくい線(旧・北陸本線敦賀駅南今庄駅の間にある延長13869mの鉄道用隧道である。

概要[編集]

足羽川流域の福井平野南越前町)と、笙の川流域の敦賀市を結ぶトンネル。木ノ芽峠の下をくぐる長大トンネルだが、若狭越前国境では無く、嶺北嶺南の境界にある。

本トンネルの西側では、北陸新幹線新北陸トンネルが同様に木ノ芽峠の下をくぐっている。

沿革[編集]

北陸トンネル開業前は敦賀駅から今庄駅の間は海岸線に近い、現在の北陸自動車道と同じ区間を通っていた。
海岸沿いには杉津などの漁村があり、ある程度の需要が見込めるのと、明治の鉄道開業時は道路も未開で鉄道駅を軍事上の眺望施設として役立てる意図もあり、時代的には妥当な措置といえた。

旅客列車としては杉津駅が景勝地や海水浴場として賑わった貢献度が大きく支障が少なかったが、貨物は急勾配もあって碓氷峠矢岳高原共々、輸送力増強の隘路となり、大正時代には今庄駅までの直流電化計画、昭和戦前期は上越線長崎本線鹿児島本線のように越美線建設[注 1]による打開策が図られたが資金面や戦争激化で頓挫した。

戦後は丹那トンネル清水トンネル土倉トンネル貫通成功による技術向上を糧に、深坂トンネル工事再開と連動した長大隧道掘削が検討され、複線化を行うために以下の3案が起案された。

  1. 在来線複付案
    最も工費が安価で、杉津付近の車窓も保たれるが、自然災害が多発し、急勾配も緩和されずに車両性能で克服するしかない。
  2. 栃ノ木峠経由案
    現在の国道365号沿いに余呉村中ノ郷駅から今庄駅までの18250mの隧道を通過して短絡する案[注 2]。この案でも杉津付近の車窓が保たれるが、一方で敦賀駅は事実上小浜線のルート上となり、深坂トンネルも後年の湖西線構想が実現しない限り、工事中途放棄となる案だった。
  3. 木ノ芽峠経由案
    13869mトンネルを貫く前記二つの折衷案で、前述の2つの案と違い、杉津付近の車窓は失われ、今庄駅の役割は減衰するが、工事中途の深坂トンネルや鳩原ループ線が活用でき、敦賀駅が本線ルートに引き続き載る案であった。

結局、敦賀〜南今庄間の「3」案によって1962年6月10日に開業した。
旧線は福井鉄道に譲渡、福武線の延伸に供されることなく廃止され、後年に一部が北陸自動車道の敷地に活用された。加えて、敦賀 - 新保間、大桐 - 今庄間で代替の国鉄バス路線が設定されたが、国鉄分民化後に廃止された。

関連項目[編集]

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  1. 前述の碓氷越えや矢岳越えと同様に、東京方面からの貨物を岡多線太多線から連ねて通過させる構想だった。
  2. 後年の北陸自動車道建設でも、ボツ案となった。

参考文献[編集]

  • 天野光三・前田泰敬・三輪利英『第2版図説鉄道工学』丸善株式会社2001年3月25日発行。
  • 椹木亨、柴田徹、中川博次『土木へのアプローチ』技報堂出版1999年1月25日3版1刷発行。