上海列車事故
ナビゲーションに移動
検索に移動
上海列車事故
日付 | 1988年(昭和63年)3月24日 |
時間 | 15時20分頃(UTC+8) |
場所 | 中国封浜(現・上海市嘉定区南翔鎮付近)滬杭鉄路外環線(南新線) |
死者 | 29 |
負傷者 | 99 |
原因 | 信号の見落としとされている |
結果 | 列車衝突・脱線 |
罪状 | 交通重罪 |
上海列車事故(しゃんはいれっしゃじこ)とは、昭和63年(1988年)3月24日午後2時19分(現地時間で)に中華人民共和国の上海郊外の単線列車で、中国旅行組第二班として修学旅行中であった高知県高知市の私立高知学芸高等学校の生徒26名、教諭1名が対向列車との正面衝突で死亡した事故のことである(1年生ら生徒193名のうち28名)[1]。
男子生徒2名と女子生徒1名は遺体の損傷が激しく、遺族の強い希望により3月26日夕刻から夜半にかけて現地で火葬を行った[2]。
負傷者も多数出て、その内日本に帰国して治療中だった男子生徒1名も同年6月7日に死亡し、これにより犠牲者は合わせて28名となった[3]。中華人民共和国は事故の原因を生徒らの列車の運転士が赤信号を見落としたことが事故原因と公表し、運転士は懲役6年6ヶ月、副運転士は懲役3年の実刑判決を受けている。
一部の遺族は現地の下見が不十分だったことや事故後の対応を非難し、学校側に損害賠償を求めて提訴するが、平成6年(1994年)に高知地裁は請求を棄却した。平成2年(1990年)には学校正門の脇に慰霊碑・「永遠の碑」が築かれているが、損害賠償棄却に納得していない原告3人の生徒の遺族は慰霊式への出席と子供の名前を刻む事を拒否しているという[4][5]。
高知学芸高等学校は事故のダメージにより、日本国外への修学旅行を自粛している。
脚注[編集]
- ↑ 池井優 (1995-1). “上海列車事故をめぐる日中交渉”. 法学研究 : 法律・政治・社会 (慶應義塾大学法学研究会) 68 (1): 55–57. .
- ↑ “27人、今夕”無言の帰国” 3人は既に現地でダビ/中国修学旅行惨事”. 讀賣新聞 (読売新聞社): p. 31. (1988年3月27日)
- ↑ 池井優 (1995-1). “上海列車事故をめぐる日中交渉”. 法学研究 : 法律・政治・社会 (慶應義塾大学法学研究会) 68 (1): 67. .
- ↑ “高知)上海列車事故30年 遺族が報告書の修正求める”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2018年3月24日) 2020年3月27日閲覧。
- ↑ “「年月たっても忘れない」 上海列車事故31年で慰霊式”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2019年3月24日) 2020年3月27日閲覧。
関連項目[編集]
- 鉄道事故
- 中華人民共和国の鉄道事故
- 六軒事故 - 日本国内で発生した修学旅行生が巻き込まれた鉄道事故
- 紫雲丸事故 - 日本国内で発生した修学旅行生が巻き込まれた事故
外部リンク[編集]
- “学芸高の報告書未完成 上海列車事故19年”. 高知新聞 (高知新聞社). (2007年3月23日). オリジナルの2008年3月18日時点によるアーカイブ。
- "上海列車事故 29年後の真実". 毎日新聞 (毎日新聞社). (2018年1月25日). 2017年まで29年間の追跡取材記録。
鉄道での事件・事故 |