聚楽第
聚楽第(じゅらくだい)は、現在の京都府京都市上京区一条堀川にあった豊臣政権の京都における政庁のことである。後陽成天皇が行幸したことでも知られている。
概要[編集]
現在の上京区の西寄り、内野の地にあったものと推測されている。1585年に正親町天皇を迎え、茶会を開いた。この聚楽第が史料に現れる初見は『多聞院日記』における天正14年(1586年)2月27日条であり、「去廿一ヨリ内野御構普請」とあることから、大坂城築城と並行して建築が進められていたものと思われる。豊臣秀吉は聚楽第を京都における豊臣政権の政庁として利用することを考えており、普請のために動員した人夫は10万人を超えたと言われている。作事には当時、豊臣政権に従っていた諸大名が割り当てられ、天正14年(1586年)6月に四国・東国などから用材が運搬され、天正15年(1587年)正月には城郭工事は終了して築庭工事が開始されており、木石は公家や寺社から徴発されたという[1]。
この年に秀吉は九州征伐を行なって薩摩の島津義久を降伏させると、同年9月に完成した聚楽第に居を移した。その時の様子は「洛中洛外見物の路次、通明く所なし」[2]とまで言われるほどだったという。天正16年(1588年)4月、秀吉は時の後陽成天皇の行幸を仰いで、自らはそれを補佐する関白としてその絶大なる権力を全国に誇示した。この行幸の際に秀吉は天皇の御前において徳川家康・前田利家ら29人の諸大名に絶対的服従を誓わせて自らの権威をさらに拡大した[3]。
しかし天下統一後、秀吉に実子の秀頼が生まれると豊臣政権に次第に暗雲が垂れ込み始める。秀吉は既に年齢的に実子の誕生を諦めて甥の秀次を養子に迎えて関白職と聚楽第を譲っていた。しかし次第に秀頼の誕生を契機にして秀次との関係は悪化し、遂に文禄4年(1595年)7月に秀次は秀吉の命令で関白職から解任の上に高野山に追放される。さらにここで切腹を命じられて死去するという秀次事件にまで至った。秀吉はさらに秀次の一族や家臣などを悉く連座により処刑し、聚楽第も破却されてその遺材の大半は築城中であった伏見城へ移建されることになった[4]。
なお、大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣が聚楽第の遺構の一部であるという伝承は、調査によって否定されている。現在は上京区松屋町通下長者町に遺構として「聚楽の井戸」が残っており、これは『聚楽第図屏風』にある「梅雨の井」の跡であると伝えられている[3]。
なお、聚楽第の正確な規模は不明だが、推測では堀の全長が1000間、深さは3間で幅が20間だったとされている[3]。