北条氏盛
北条 氏盛(ほうじょう うじもり、天正5年(1577年) - 慶長13年5月18日(1608年6月30日))は、安土桃山時代の武将。江戸時代初期の大名。河内狭山藩の初代藩主。通称は助五郎。官位は従五位下、美濃守。
生涯[編集]
北条氏規の長男。母は北条綱成の娘の高源院殿。従兄の後北条氏の第5代当主・北条氏直の従弟で養子。正室は旗本・船越景直の娘。兄弟姉妹に北条菊千代、北条勘十郎、北条松千代、智清禅定尼(北条直定室)、安養院殿(白樫三郎兵衛室)、女(東条長頼室)らがいる。子に氏信(長男)、氏利(次男)、氏重(3男)、熊丸(4男あるいは次男とも)、女子。
天正17年(1589年)11月10日、従兄の氏直の下で元服し、後北条氏の通字である「氏」を授けられて氏盛と称した。仮名は父と同じ助五郎。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、氏盛は従兄の氏直、父の氏規と共に高野山に入って蟄居した。天正19年(1591年)、氏直が秀吉に赦免された際に氏盛も赦免された。そして同年8月からの奥州の九戸政実の乱の際には、徳川家康に従って従軍した[1]。
ところがこの年の11月に復帰を予定されていた氏直が死去してしまった。氏直には男子が無かったため、秀吉は12月になって後北条家の名跡継承者として氏盛をその相続者として認め、氏直の名跡とその遺領である下野国足利4000石を氏盛が相続することになった[1]。つまり、氏盛は従兄・氏直の養子となって後北条家の家督を相続したのである。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においては、秀吉に従って肥前国名護屋城に在陣する。慶長5年(1600年)4月に父の氏規が死去し、その遺領である7000石の相続が認められて、先の4000石を合わせて1万1000石となって大名に昇格した。同年に徳川家康と石田三成の対立が先鋭化すると、氏盛は家康に従って会津征伐に従軍して下野国小山まで赴く。そして7月に石田三成が挙兵すると、反転して西上する徳川軍に従い、9月の関ヶ原の戦いにおいては徳川氏の家臣・西尾吉次の配下に属して参戦した。そのため戦後に所領安堵され、ここに河内国狭山藩が立藩された。なお、下野国の所領は足利から都賀郡に移されている[1]。
慶長6年(1601年)5月11日に従五位下美濃守に叙任。慶長13年(1608年)5月18日に32歳の若さで死去した。法名は松林院殿浄誉心徹大禅定門[1]。墓所は専念寺(大阪府大阪市)。
第2代藩主の座は、まだ8歳と幼い嫡男の氏信が継承した[2]。