大日本帝国海軍の食生活
大日本帝国海軍の食生活(だいにほんていこくかいぐんのしょくせいかつ)は、大日本帝国海軍の軍艦などの艦艇、軍港、飛行機、学校での給食について説明する。
概要[編集]
外界から途絶された大海原では個人が食事を準備することはできず、古から船員に給食する義務が船長にあった。そして国家の武装組織である海軍も当然それに習った。
前史[編集]
マシュー・ペリーによる開国によって徳川幕府は海軍を創設することになり、海軍奉行以下の幕府海軍が創設された。1860年の遣米使節を乗せた咸臨丸には米、味噌、醤油、大麦、豚、家鴨が積み込まれた。
大日本帝国海軍創設[編集]
大日本帝国陸軍は明治時代初期に徴兵によって兵士を軍隊に収容した際、当初は食費を支給していたが、故郷に送金してろくなものを食べていなかったので、直ちに給食を開始した。当初は完全な洋食で、兵士たちははじめて口にするパンや牛乳に困惑した。軍隊に脚気が蔓延したとき、玄米や麦を食べれば脚気の予防に効果があると、これらを白米に混ぜた。カレーライスや肉じゃがは大日本帝国海軍から広まったとされている。調理は主計課が担当し、他の兵科と同様厳しい訓練を受けた調理専門の兵が配置された。
艦内での調理[編集]
安全面から直火は使えず、ボイラーからの高温高圧蒸気で調理した。炊飯、汁物、揚げ物まですべて蒸気を使った。この扱いは熟練を要した。ボイラーを担当するのは機関科である。ここの機嫌を損なうと蒸気を送ってくれなくなるので、付け届けは欠かせなかった。機関科にしても空腹では働けないし、目の前に火があれば何か焼いてみたくなるであろう。ディーゼルエンジンで走行する潜水艦はボイラー設備はなく、電気調理器を使った。
下士官兵の食事[編集]
出来上がった料理は各自の持ち場から最下級の兵が寸胴を持って取りに行き、それを各自の持ち場へ持ち帰って食器に配分する。盛り付けた料理は各員の席に置かれ、上席の先任下士官が箸を取って食べ始めると漸く兵士も食事をとることができる。
戦闘食[編集]
平時では椅子に座って容器に料理を盛り付けて箸で食事ができるが、兵器を扱っている状態ではそれができないため戦闘食が作られる。戦闘食として代表的なものが握り飯であった。炊きたてのご飯を大量に握るため、担当した兵士の掌は火傷のように真っ赤になり、水ぶくれができたという。現代のコンビニエンスストアで販売されているおにぎりの製造機はなく、竹筒にご飯を詰めてところてんのように押し出して包丁で切るというアイデアもあったようだが、手で握った方が速いという結論に至った。厨房がダメージを受けたら乾パンを食べるしかないが、喉になかなか通らなかったという。
テーブルマナー[編集]
士官養成の海軍兵学校では、将来外国武官との会食で恥をかかせないように士官候補生にテーブルマナーを叩き込まれた。海軍兵学校を卒業して少尉に任命されても格式の高い西洋料理店精養軒で食事をするよう命じられた。
巡洋艦「出雲」の昼食会[編集]
1930年9月1日に巡洋艦出雲で昼食会が行われた。前菜から冷菓までに至るフルコースであった。
真珠湾攻撃の際の食事[編集]
1941年12月8日の真珠湾攻撃の朝、航空母艦瑞鶴での食事。
朝食 | 握り飯、ボイルドベーコン、きんぴらごぼう、味付け昆布、たくあん |
昼食 | 握り飯、おでん (牛肉、里芋、大根)、たくあん |
夕食 | 弁当、煮込 (豚肉、人参、馬鈴薯、大根) |
夜食 | 乾パン、栄養食 |
爆撃前 | 鉄火巻、卵焼き、煮〆 (大根、人参、松茸)、増加食 (りんご、紅茶、熱量食) |
応急食 | 機上応急食 |
爆撃後 | みつ豆、増加食 (コーヒー、冷やしサイダー、熱量食) |
機上応急食は乾パンとされている。瑞鶴は、攻撃前に呉軍需部で武器弾薬を含む物資を大量に積み込んだ。
飛行機の食事[編集]
上空数千メートルでは季節によっては氷点下となり、あらゆる食品は凍結してしまう。その中で軍用機の操縦をしながら食事をする方法が考えだされた。外国の航空食料も参考にされたが、稲荷寿司や海苔巻きが好評だった。
潜水艦の食事[編集]
他の艦とは異なり、高温多湿の艦内では麦や玄米は痛みやすいので白米が支給された。潜水艦の小さな冷蔵庫で保管できる生鮮食料品の量には限りがあり、葉菜類は数日でなくなってしまい、常温で保存できる根菜類がなくなれば缶詰の生活となる。毎日がそうなるので缶詰に嫌気がさし、牛肉の缶詰は生理的に受け付けないと訴える者もいた。それでも赤飯やみかんの缶詰は好評だったようだ。調理器具は電気炊飯器、電気レンジくらいしかない。艦内の楽しみは食事しかないので、料理の腕の良い者の存在は歓迎された。また、潜水艦の食料にも多額の予算が使われた。しかし、それが仇となって健康を損なう者もいた。
元旦 (木) | 朝食 | 雑煮 (缶詰餅、かまぼこ、筍、フキ、ホウレンソウ)、数の子、切りするめ、煮豆、紅生姜 |
昼食 | 白飯、その儘 (鶏肉大和煮)、里芋白煮、吸物 (かに缶、松茸、ホウレンソウ) | |
夕食 | 白飯、その儘 (いわし油漬け)、酢の物 (万才煮)、吸物 (キャベツ、人参、筍、椎茸)、 | |
漬物 (大根味噌漬け) | ||
五日 (月) | 朝食 | みそ汁 (赤味噌、広島菜)、漬物 (旧漬) |
昼食 | その儘 (缶詰獣肉)、鉄砲和え (豆もやし)、漬物 (旧漬) | |
夕食 | 塩魚 (ボイル)、桜ボイル (ジャガイモ、菜、筍)、汁、漬物 | |
六日 (火) | 朝食 | みそ汁 (赤味噌、豆もやし、乾油揚)、漬物 (旧漬) |
昼食 | おはぎ (もち米、小豆)、辛子和え (缶詰獣肉)、澄汁 (椎茸、ほうれんそう)、漬物 (旧漬) | |
夕食 | その儘 (缶詰魚肉)、油いり (ひじき、乾油揚)、漬物 (旧漬) | |
七日 (水) | 朝食 | みそ汁 (赤味噌、干大根)、向付 (鉄火みそ)、漬物 (古漬) |
昼食 | その儘 (缶詰獣肉)、浸し (ほうれん草)、吉野汁 (筍、ふき)、漬物 (古漬) | |
夕食 | その儘 (缶詰獣肉)、甘煮 (乾馬鈴薯、人参)、漬物 (古漬) | |
八日 (木) | 朝食 | みそ汁 (赤みそ、広島菜)、漬物 (古漬) |
昼食 | 塩魚 (ボイル)、煮しめ (馬鈴薯、人参、ごぼう)、漬物 (古漬) | |
夕食 | ソボロ煮 (缶詰獣肉)、濃平汁 (松茸、ふき)、漬物 (古漬) | |
九日 (金) | 朝食 | みそ汁 (赤みそ、豆もやし)、向付 (干海苔)、漬物 (古漬) |
昼食 | その儘 (缶詰獣肉)、ぬた (豆もやし、わかめ)、漬物 (古漬) | |
夕食 | ソボロ煮 (缶詰獣肉)、澄汁 (椎茸、切り麩)、漬物 (古漬) | |
十日 (土) | 朝食 | みそ汁 (赤みそ、干大根)、漬物 (古漬) |
昼食 | ハムライス (燻製獣肉)、スープ (かに缶詰、干うどん)、漬物 (古漬) | |
夕食 | その儘 (缶詰魚肉)、油いり (乾ぜんまい)、漬物 (古漬) |
酒保[編集]
軍の売店である。現金決済は受け付けず、領収書による決済だった。市価よりも安く販売されていた。無理な要求が出ないよう、担当者は古参の下士官であった。
栄養について[編集]
壊血病[編集]
古今東西、船員には給食が与えられが、有名なものに大航海時代のライムジュースがある。これは大量に含まれるビタミンCによって壊血病を防ぐためであった。イギリス海軍は船員にビスケット、塩漬け牛肉、ビール、エンドウ豆、ライムジュース、後にレモンジュースを与えていた。大日本帝国海軍が発足した当時は既に壊血病の対策が知られていたので壊血病の患者もほとんど出さずに済んだ。
脚気[編集]
脚気は江戸時代に江戸から急激に流行した病気で白米を食べるようになってから玄米に含まれていたビタミンB1が摂取できなくなって起きた病気であった。大日本帝国陸軍軍医森鴎外は「脚気菌が原因」であると細菌説を称えて多数の脚気患者を出す一方、大日本帝国海軍はオオムギをコメと一緒に炊いた麦飯を出したが、事情を知らない海軍将校が「帝国海軍の兵士に麦飯を出すとは何事か」と言うこともあった。また、麦飯を嫌い、白米のみで炊飯して麦を艦艇から捨てる行為も後を絶たなかった。