山陽本線の歴史
山陽本線の歴史(さんようほんせんのれきし)は、山陽鉄道、及び、国家によって建設、路線改良、電化されたことの歴史である。
前史[編集]
京都から西へ瀬戸内海に沿って向かう西海道は、奈良時代から平安時代にかけて整備され、公務、商用に活用された。江戸時代には宿場町が整備され、沿線は経済的にゆたかになっていった。しかし、この西海道に対しては競争相手があった。瀬戸内海という海の道を縄張りとする西廻海運という内航海運だった。多くの貨物を積むことができる千石船を使った北前船が東北地方から瀬戸内海を経て江戸に至り、多くの富を船主に与えた。
山陽鉄道[編集]
政府は神戸駅から西へ向かう鉄道の建設を欲していた。しかし、西南戦争のような士族の反乱を受け、これの鎮圧のために多額の費用がかかったのと松方正義蔵相のデフレ政策のため官設での建設を断念。そこで、神戸〜姫路間で既に建設許可申請が出されたのを利用して、民間に任せることにし、こうして設立されたのが山陽鉄道であった。資本の出所は大名華族や豪商、豪農であった。初代社長には福澤諭吉の甥の中上川彦次郎が就任した。
建設[編集]
ほぼ瀬戸内海沿いに建設された。社長に就いた中上川が100分の1以上の急勾配は認めない方針だったため、平坦な海沿いの城下町や宿場町、港町を地形に逆らわず[注釈 1]に繋いでいった[注釈 2]。ただし、速成を求められた一部の地域では山沿いの河川敷に開けた町への建設となった。東海道本線のように軍事上の関係による極端な山沿いへの迂回はされることはなく、むしろ軍事輸送目的に軍港のあった呉への支線が早期に建設された。
営業[編集]
内航海運に対抗する関係で日本ではじめて寝台車や食堂車の営業を始めた。
国有化[編集]
日清戦争の際、広島に大本営や帝国議会が臨時に移るなど国策に貢献した一方、人員や物資の輸送時に各鉄道会社の規格の違いにより輸送が滞ることがあったり、日露戦争の際に会社合算による運賃高騰の弊害が生じた。
このため、西園寺公望などの国有消極派を押しきって、長州閥の鉄道重鎮の井上勝が、日本各地の有力な私鉄の国有化を推進することになった。
山陰本線全通前であったが、山陽鉄道も国有化されることになり、山陽鉄道は、1906年に山陽本線となって官設線として新しく歩みを始めた。
路線の改良[編集]
- 岩国駅と櫛ケ浜駅(徳山駅)との間は柳井駅経由で大きく迂回しているが、これを山間部で短絡して速度の向上をしようと新線を建設したものの欽明路トンネルの煤煙処理がうまくいかず、戦時輸送力増強で逆に元の柳井経由ルートが複線化され、現在に至っている。
- 現在と異なるルートは下関市に集中。勾配を緩和するために、幡生〜長府間のルート変更が行われ、新下関駅の前身の長門一ノ宮駅が移転した。下関駅も関門トンネル開通に伴い、西寄りの現在地に移転した。
- 東海道本線の浜名湖北岸迂回線(現・天竜浜名湖鉄道)のような戦時迂回路線は山陰本線の園部駅と姫路駅との間にも計画され、一部が篠山線として開通したが、全通することはなく、篠山線も1972年に廃線となった。
電化[編集]
最初の電化は、京阪神電車の延長の形で、1934年7月に神戸 - 須磨間、9月に須磨 - 明石間で実施された。
国鉄発足前は、西明石駅以東と関門トンネルが電化されたのみだった。
最後に電化したのは、東海道新幹線開業約2ヶ月前の1964年7月25日の横川 - 小郡(現・新山口)間だった。
関連項目[編集]
外部サイト[編集]
脚注[編集]
- 注釈