北前船

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北前船 (きたまえぶね) とは江戸時代から昭和初期にかけて大阪北海道の間の内航海運で使用された和船の通称である。

概要[編集]

上方で生産された工業製品、古着、書籍を瀬戸内海を通じて日本海沿岸の港町や北海道で売り、それらから海産物や米を上方に輸送して利益を上げたである。また、同じ商品でも地域によって値段のばらつきがあったので、これによって利ざやを稼ぐこともあった。

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他の和船と異なり、冬期の日本海の荒波を乗り越えるために前後は屹立し、頑丈に作られた帆船である。帆は船体中央部に大きい横帆が一枚と船首に小さい横帆が一枚ある。逆風時には間切りによって之の字航行、いわゆるタッキングが可能であった。水密甲板がないことや、舵が引き上げ式なのは他の和船と同じである。明治時代になると西洋式帆装の縦帆である、ジブ、スパンカーや固定式舵を設置した和洋折衷船となった船もあるが、古い写真から推測するに和船のまま使われた船もある。

乗組員[編集]

通常は10人ほど乗り組んだ。最高責任者の船頭の下、表司、親仁、知工が三役と呼ばれ、それ以下の一般船員は水主 (かこ)と呼んだ。

組織[編集]

呼び名 役柄
船頭 (せんどう) 船長・運行、契約、船員の統率
表司 (おもてし) 航海士・目的地までの航路を指示
親仁 (おやじ) 水夫長・甲板上の作業の指示
知工 (ちく) 事務長・会計全般
片表 (かたおもて) 副航海士・表司の補佐
舵子 (かじこ) 操舵手・舵を動かす
碇捌 (いかりさばき) 碇の上げ下げ
水主 装帆手・指示のもとで轆轤で帆の上げ下げをする
炊 (かしき) 烹炊員・調理

港町[編集]

交易や風待ちのための通常ののほか、悪天候からの海難を避けるための避難港が各地に設けられ、港町が形成された。北前船が消滅してからも独特の文化を残していたり、遠く離れた地の影響を受けた町は多い。

衰退[編集]

明治時代になり、政府は安全性の向上のため、五百石以上積める和船の建造を禁止したが、和船の経済性は捨てがたく、西洋式帆装を取り入れた和洋折衷船の建造によって抜け道を作ったほか、エンジンを積んで機帆船に改造された船もあった。
しかし電信や米以外の商品市場の発達によって商品の値段が地域によってばらつくことがなくなり、羽越本線信越本線北陸本線小浜線山陰本線といった鉄道の延伸によるスピードアップ、汽船の登場による安全性の向上によって北前船は衰退した。

関連項目[編集]