北条勘十郎
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北条 勘十郎(ほうじょう かんじゅうろう、天正8年(1580年) - 慶長5年1月21日(1600年3月6日))は、安土桃山時代の武将で後北条氏の一族。豊臣秀次、徳川家康に仕えた。
生涯[編集]
父は北条氏規で3男。母は北条綱成の娘・高源院殿。兄に北条氏盛、北条菊千代。弟に北条松千代。幼名は竜千代。3男だったが、次兄の菊千代が早世したことから次男に格上げされている[1]。
天正15年(1587年)に父の氏規が家臣の朝比奈泰寄を竜千代の陣代に任命し、天正18年(1590年)1月には竜千代の家臣を全て三崎城か小田原城に籠城させるなど、竜千代の独自の家臣を編成していることから、氏規からかなり寵愛されていた可能性がある。同年の小田原征伐で後北条家が滅亡した後は氏規と共に行動し、天正19年(1591年)12月27日には在京していることが判明している[1]。文禄年間に勘十郎と名を改め、文禄4年(1595年)の段階では豊臣秀次に仕えていたことが判明しているので、聚楽第にいた秀次の下で家臣として仕えていたと推測される。しかし同年の秀次事件で秀次とその一族が処刑されると、徳川家康に仕えた[2]。
慶長5年(1600年)1月21日に21歳の若さで死去した。享年21。松竜院殿月照梅翁大禅定門[2]。父の氏規が死去するわずか半月前のことであった。