吉川氏

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吉川氏(きっかわし)とは、日本氏族である。戦国時代毛利元就の次男・吉川元春養子として入り、毛利両川の一翼を担ったことで知られる。江戸時代には3万石という大名クラスの所領を持っていたが正式には大名として認められておらず、正式に大名となったのは明治維新における維新立藩による(岩国藩)。家紋は九曜。

概要[編集]

藤原氏の流れを汲む一族で、吉川の姓については現在の静岡市、つまり駿河国吉香(きっかわ)にちなむと言われている。

安芸国の国衆として威を振るった。小領主であったが、歴代当主には武勇に優れた人物が多く戦闘力は非常に強かった。戦国時代になると、尼子経久と手を結びながら勢力を拡大。毛利元就にも娘の妙玖を嫁がせて縁戚関係を結んだ。吉川国経吉川元経の時代は勢力を振るったが、吉川興経の時代になると大内氏尼子氏との間で存続に苦慮し、また戦略が一定せずに家中が衰運に見舞われる。このような中で元就は妙玖の死後、その間に生まれた次男の吉川元春を興経の養子に入れて家督を継承させ、後に興経を殺害して吉川氏は事実上毛利家に乗っ取られることになった。以後、毛利氏を支える一翼として吉川氏は山陰で威を振るった。天正14年(1586年)に元春が死去し、天正15年(1587年)に吉川元長が死去して、家督は元長の弟である吉川広家が継承する。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、広家は本家の毛利氏を守るため、密かに徳川家康と内通する。広家は内通の見返りに毛利氏の所領安堵を望んだが、戦後に家康はこの約束を守らずに毛利氏は長州藩37万石に大減封され、それに従って広家も毛利氏から3万石を分知されて周防国岩国領主となった。吉川氏は裏切り者扱いされ、本来なら大名クラスの知行を持っていたにも関わらずあくまで毛利氏の家臣としての立場を貫いた。

広家の孫・吉川広嘉は河口の干拓、銅山の開発、製糸業の奨励など内治に尽力し、現在に有名な名橋・錦帯橋延宝元年(1673年)に築くなど、多くの治績を遺している。

幕末になると、吉川経幹が国事に奔走した功績から、明治維新後の維新立藩で6万石の周防岩国藩主として正式な大名となった。

明治時代になると、吉川氏は男爵、後に子爵に列した。

安芸吉川氏歴代当主[編集]

系図[編集]

太字は安芸吉川氏(岩国藩主家)当主、実線は実子、点線は養子。※は同一人物。
入江景義
吉川経義
友兼
朝経
経光
[安芸吉川氏]
経高
[駿河吉川氏]
経時
[播磨吉川氏]
経盛
[境氏吉川氏]
経信
[石見吉川氏]
経茂
経盛経長経家経久経任経兼
経秋実経経景師平経春経世経見
弥徳経見虎熊丸経朝経朝経方経氏
経信信朝経任経義
之経経実経康
経基(以後存続)経祐
国経石野経守江田経純-国衙光経茂経法吉川夫人経典久利淡路守
元経[宮庄氏]
宮庄経友
経世妙玖毛利元就吉川経安
興経[市川氏]
市川経好
市川局今田経高経家
千法師元教元好吉川元春新庄局[1]隆元[岩国藩家老]
経実
[鳥取藩士]
家好
元直飯尾元行[岩国藩主家]
元長
阿川毛利家
毛利元氏
広家松寿丸輝元正実(略)
元栄広家容光院[2]就隆正両吉河寛雅
広正大野毛利家
毛利就頼
元次正倫
広嘉就紀広豊安治寛海
(5代目三遊亭圓楽)
広紀吉川経倫
広逵
経永
経倫
経忠大島義言
経賢経礼経章
経礼
経章
経幹
経健[男爵家]
重吉
芳子元光重国
重喜重昭
重泰

吉川氏有力家臣[編集]

一門・親族[編集]

家臣[編集]

(家臣ではなく、補佐として付けられた者も含む)

縁戚[編集]

吉川氏が支配した主な城[編集]

居城[編集]

その他の城[編集]

脚注[編集]

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  1. 熊谷信直の娘。
  2. 宇喜多直家の娘。

関連項目[編集]