北条師時

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北条 師時(ほうじょう もろとき、建治元年(1275年) - 応長元年9月22日1311年11月3日))は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第10代執権(在職:正安3年8月22日1301年9月24日) - 応長元年9月22日(1311年11月3日))。

生涯[編集]

父は第8代執権・北条時宗の同母弟である北条宗政。母は第7代執権・北条政村の娘。通称は相模四郎。子に時茂貞規

伯父の第8代執権・北条時宗には長男の北条貞時以外に息子が生まれなかったので、兄弟のいない貞時を補佐させるために血族として甥である師時が時宗の猶子になった。同時に従弟の北条兼時北条宗方も猶子にされており、彼らは貞時の義弟としてその補佐を託されることになった。

弘安4年(1281年)閏7月に父の宗政が長門国守護に任命されたが、この時に宗政は既に病床にあったため、その名代を当時7歳の師時が務めたとされている。そして父が同年8月に病死したため、師時の守護名代も1ヶ月ほどで終了した(『長門国守護職次第』)。弘安7年(1284年)7月には小侍所別当に10歳で就任している。このような要職を幼児で歴任できたのは、時宗の猶子であり、血統的に貞時に最も近く執権後継者として貞時に次ぐナンバー2であったことが重要視された可能性がある。

伯父の時宗は弘安7年(1284年)に死去し、その跡を貞時が継承して第9代執権となる。兄弟のいない貞時は自分の従弟で最も血統が近い師時と宗方の両者を登用し、重用した。永仁元年(1293年)4月に平禅門の乱によって内管領平頼綱一派を滅ぼすと、貞時は5月に師時を評定衆に任命している。さらに3番引付頭人から執奏、2番引付頭人と要職を歴任し続けている。

正安3年(1301年)8月、貞時から執権職を譲られて後継の第10代執権に就任する。ただし実権はあくまで得宗家の貞時が掌握しており、師時は貞時の後継者となる息子(北条高時)が成長するまでの代つなぎである眼代として選ばれたに過ぎなかった。師時の執権時代には嘉元の乱が起きているが、これに関与して処分を下しているのは貞時であり、師時が関わった形跡はほとんど見られない。

代つなぎであった師時であったが、父親と同じように寿命に恵まれず、先代の貞時に先立って応長元年(1311年)9月に死去した。37歳の若さだった。

師時の死については意外にも詳しく多くの史料が残されている。

  • 鎌倉年代記』では「応長元年9月22日に出家し、同日に死去した」
  • 将軍執権次第』においては「応長元年9月20日に評定の座で頓死(没日が全然違うので誤記か、この場で病に倒れたと見るべきかとする説がある)し、9月21日に出家し、9月26日に死去した」
  • 武家年代記』では「応長元年9月20日に評定の座で病に倒れ、9月22日に死去した」
  • 桓武平氏系図』では「応長元年9月22日に評定の座で頓死した」

とあり、師時は急病により若くして死去したものと思われる。

師時の妻は貞時の娘で、夫の死後も19年ほど生き延びていることが確認されている。