北条基時
北条 基時(ほうじょう もととき、弘安9年(1286年) - 正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の北条氏の一族。鎌倉幕府の第13代執権(在職:正和4年7月11日(1315年8月11日) - 正和5年7月9日(1316年7月28日))[1]。
父は北条時兼。正室は第9代執権・北条貞時の娘。子に最後の六波羅探題北方となった仲時や高基がいる。官位は従五位上相模守、越後守、讃岐守、従五位下左馬助。普恩寺 基時(ふおんじ もととき)とも言われる。
生涯[編集]
祖父は連署を務めた北条業時。父は北条時兼であるが、父は基時が11歳のときに早世している。
正安3年(1301年)6月7日に六波羅探題北方として上洛する[1]。この頃に讃岐守となった[1]。乾元2年(1303年)10月20日に六波羅探題を辞職して関東に帰国し、評定衆となる[1]。嘉元3年(1305年)8月22日に引付頭となる[1]。延慶3年(1310年)に信濃守護となった[1]。
正和4年7月11日(1315年8月11日)に第13代執権に就任し、7月19日に正五位下相模守となるが、幕政の実権は内管領の長崎高資に掌握されていた[1]。翌年に執権職を得宗家の北条高時に譲って辞職し、11月20日に出家して信忍と号し、以後は政治の表舞台に現れず[1]、隠居していたようである。
正慶2年/元弘3年(1333年)5月、新田義貞率いる新田軍が鎌倉に攻め寄せると、基時は突如として表舞台に登場し、5月18日から化粧坂の幕府軍守備隊の総大将を務めて新田軍をよく防いだ[1]。しかしこの攻防戦の間に他の坂を攻めていた新田軍が次々と北条軍を突破して鎌倉に攻め込んだため、5月22日に自害した[1]。享年48。『太平記』によるとわずか20騎ばかりの郎党を率いて自らが建立した普恩寺に赴いて自害したとされている。
辞世の句は「待てしばし死出の山辺の旅の道、同く越て浮世語らん」であり、これは基時の自刃するわずか2週間前に近江番場で自害した息子の仲時を思って詠じたものとされ[1]、句の内容から基時は幕府滅亡は避けられないものと覚悟していたようである。