北条高直
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北条 高直(ほうじょう たかなお、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。北条氏(大仏流)の一族。大仏 高直(おさらぎ たかなお)とも言われる。
生涯[編集]
父は連署の北条維貞。兄弟に高宣、家時、貞宗。子に高朝。式部大夫を経て右馬助に転じ、陸奥右馬助と称した[1]。
鎌倉幕府の討幕運動が拡大し、河内で楠木正成の活動が盛んになった際、幕府軍3名の大将のひとりとして河内金剛山包囲軍を指揮した。しかし正慶2年/元弘3年(1333年)4月に足利高氏が幕府から離反して六波羅探題を攻撃したことを知り、5月10日に包囲を解いて奈良に撤退する。5月22日に鎌倉幕府が滅亡したため、6月5日に高直は出家して後醍醐天皇に降伏し、京都に護送された[1]。
建武元年(1334年)3月9日に北条氏の残党である本間氏・渋谷氏などの鎌倉侵攻が行なわれると、建武政権による北条氏への徹底殲滅の動きが強められ、高直は京都東山阿弥陀峰で北条時治や長崎高貞と共に処刑された[1]。
処刑日に関しては正慶2年/元弘3年(1333年)5月(『系図』)、建武元年3月21日(1334年4月25日)(『蓮華寺過去帳』『梅松論』)、建武元年(1334年)4月(『保暦間記』)、建武元年9月9日(1334年10月7日)(『太平記』)と史料により一致しない。