日野資朝

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日野 資朝(ひの すけとも、正応3年(1290年) - 元弘2年/正慶元年6月2日1332年6月25日))は、鎌倉時代末期の公卿日野俊基と並ぶ後醍醐天皇の腹心の一人として討幕運動に参画したが、鎌倉幕府逮捕されて流罪となり、後に処刑された。官位は従三位。権中納言。

父は権大納言日野俊光[1]。兄に資名。弟に柳原資明賢俊。子に朝光邦光慈俊、娘(北畠顕家室)。

生涯[編集]

後醍醐天皇の側近として仕え、元亨元年(1321年)に参議となる[1]。元亨3年(1323年)に従三位に叙せられ検非違使別当となる[1]。その後、勅使として関東に下向し、権中納言となる[1]

後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕計画を図ると日野俊基らと共にその計画に参画し、後醍醐天皇のグループの中心人物の一人となる[1]。『太平記』によると討幕の密議を偽装するために同志と共に無礼講と称する宴会を催していたという。

しかし正中元年(1324年)に正中の変が発生してこの計画は幕府に露見し、資朝は俊基と共に六波羅探題逮捕されて鎌倉に送られた[2]。この変事の際は北条高時をはじめとした幕府首脳陣もこれ以上事態を悪化させずに終結させたい考えがあったため、資朝は変事の中心人物と見なされて幕府により死一等を減刑されて佐渡への流罪とされる[2]

だが元弘元年(1331年)に後醍醐天皇による再度の討幕計画である元弘の変が発生すると幕府も態度を硬化させ、資朝は佐渡において本間山城入道により処刑された[2]。享年43[2]

『太平記』によると処刑される前の父に会うために本土からはるばる佐渡まで訪ねてきた息子の阿新丸は本間に父との対面を嘆願したが、本間は会見を許さないままに資朝を処刑した。阿新丸は本間の非情さに激怒して本間の子・三郎を討って仇を果たして佐渡から逃亡し、後に後醍醐天皇に仕えた。この阿新丸こそ後の日野邦光である。

脚注[編集]

  1. a b c d e 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P487
  2. a b c d 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P488

参考文献[編集]