得宗
得宗(とくそう)とは、鎌倉幕府の執権職を世襲した北条泰時の子孫、すなわち北条氏の嫡流の当主を指す用語である。徳宗、徳崇と呼ばれる場合もある。
概要[編集]
得宗とは、鎌倉幕府の第2代執権である北条義時の法名であるとされているが、詳しいことはよくわかっていない。これは義時の跡を継承した第3代執権の北条泰時とその子孫、すなわち北条氏宗家(本家)の当主を指す用語である。そのため、普通は義時・泰時の後は北条時氏、北条経時、北条時頼、北条時宗、北条貞時、北条高時の8名を指すはずなのだが、初代執権の北条時政を含めた歴代9代を指す場合もある。
北条氏には多くの分家、庶流が存在したが、その中でも得宗家は随一の実力を誇った。なお、得宗歴代9代のうち、泰時の長男である時氏のみは若死したため執権に唯一就任していない。また、初代から3代の時政(78歳)、義時(63歳)、泰時(60歳)こそ長命の方だが、時代を経るごとに得宗家の当主の寿命は、執権職という激務や、経時以降の外戚が安達氏といった特定の氏族で短い親等間の婚姻が多かったためか、非常に短命となった。4代以降は、時氏(28歳)、経時(23歳)、時頼(37歳)、時宗(34歳)、貞時(41歳)、高時(31歳)である。このうち、高時のみは鎌倉幕府滅亡時において新田義貞に攻撃されて自刃しているため寿命を全うしていないが、高時は病弱であったと伝わっており、仮に全うしたとしても長命であったかどうかには疑問が持たれる。
また、歴代当主のほとんどが20代から30代で死亡しているため、家督相続時(あるいは執権職就任時)は非常に若年、幼年であることが多く、そのため成長するまでの中継ぎ、代理として北条家の分家から執権が迎えられる例が時頼以降は常態化した。ちなみに経時以降の家督・執権相続時の年齢は経時(19歳)、時頼(20歳)、時宗(家督相続が13歳、執権職が18歳)、貞時(14歳)、高時(家督相続が9歳。執権職が14歳)であった。
なお、これら得宗が幕政を取り仕切ったことを一般的に「得宗専制政治」(とくそうせんせいせいじ)と呼ぶ場合がある。
元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日)に新田義貞の攻撃を受けて鎌倉が陥落した際(鎌倉の戦い)、得宗の北条高時は多くの北条氏一族と共に菩提寺の東勝寺において自害。これにより、得宗家自体は事実上滅亡した。
鎌倉幕府滅亡後[編集]
高時の遺児・北条時行は鎌倉陥落時に諏訪氏の手引きによって信濃国に落ち延び、建武政権下で中先代の乱を引き起こして一時的に勢力を盛り返すなど奮戦したが、幕府滅亡から20年後に足利尊氏に敗れて斬首(生き延びたとする説もある)。これにより、得宗家は完全に滅亡した。なお、時行は得宗家の当主には数えられていない。
得宗家当主一覧[編集]
名前 | 続柄 | 将軍 | 天皇 |
---|---|---|---|
北条時政 | 源頼朝の舅 | 源頼朝、源頼家、源実朝 | 後鳥羽天皇、土御門天皇 |
北条義時 | 時政の子 | 源実朝 | 土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇 |
北条泰時 | 義時の子 | 藤原頼経 | 後堀河天皇、四条天皇、後嵯峨天皇 |
北条経時 | 泰時の孫 | 藤原頼経、藤原頼嗣 | 後嵯峨天皇、後深草天皇 |
北条時頼 | 経時の弟 | 藤原頼嗣、宗尊親王 | 後深草天皇、亀山天皇 |
北条時宗 | 時頼の子 | 宗尊親王、惟康親王 | 亀山天皇、後宇多天皇 |
北条貞時 | 時宗の子 | 惟康親王、久明親王、守邦親王 | 後宇多天皇、伏見天皇、後伏見天皇、後二条天皇、花園天皇 |
北条高時 | 貞時の子 | 守邦親王 | 花園天皇、後醍醐天皇 |
関連項目[編集]
- 北条氏 (名越流):家祖が義時の正室所生の長男北条朝時であったことから、泰時〜時宗執権時は得宗家と対抗姿勢だった。