北条煕時

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北条 煕時(ほうじょう ひろとき、弘安2年(1279年) - 正和4年7月18日1315年8月18日))は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第11代連署、第12代執権(執権在職:応長2年6月2日1312年7月6日) - 正和4年7月11日1315年8月11日))である。父は北条為時 (政村流)で、第7代執権・北条政村曾孫にあたる。正室は第9代執権の北条貞時の娘で、10代執権師時と相婿になる。

生涯[編集]

北条為時の子として生まれるが、為時は弘安9年(1286年)に若くして死去したので、祖父の北条時村に養育されたものと思われる。

永仁3年(1295年)に17歳で引付衆に任命される。正安3年(1301年)8月22日に23歳で評定衆に任命された。8月23日に祖父の時村が連署に就任したので、それに伴ってわずか2日後に煕時は4番引付頭人に昇格している。これは祖父の時村が幕府の重鎮として重きに置かれていたことから、その嫡孫である煕時も取り立てられたものと見られている。また、煕時は第9代執権・北条貞時の娘婿でもあったので、その縁戚関係からも若年であるにも関わらず取り立てられたものと見られている。

嘉元3年(1305年)4月の嘉元の乱で、祖父の時村が北条宗方によって殺害されるという事件が発生するが、煕時は難を逃れている。そして乱の終結後には、時村が就任していた長門国守護職を引き継いでいる。ただし、実際に長門国に赴いて実務を執っていたのは兄弟に当たる北条時仲であった。

応長元年(1311年)9月に第10代執権の北条師時が死去し、それにより10月3日には北条宗宣が第11代執権に就任し、同時に煕時が1番引付頭人から連署に昇格した。そして10月24日には相模守に任官している。正和元年(1312年)5月に北条宗宣が病気に倒れて出家して執権職を退いたため、6月2日に煕時が後任の第12代執権に就任する。

ただし煕時の執権就任は、貞時の遺児である北条高時が成長するまでの代つなぎのためによるもので、幕政の実権にしても貞時に後事を託されていた内管領長崎円喜安達時顕に掌握されており(『保暦間記』)、煕時に指導力を発揮することはできなかった。それでも、自らの執権在任中に連署を置かなかったり、1番引付頭人だった北条基時を更迭したりするなど、わずかながら指導力を見せようとしている。なお、執権在職中に連署を置かなかったのは、北条経時以外ではこの煕時だけであり、また基時との対立は何らかの確執があったと見られている。

執権在職は3年ほどに及び、正和4年(1315年)7月12日に病気を理由に執権職を対立していたはずの基時に譲って出家し、7月19日に37歳の若さで死去した。