修学旅行

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修学旅行(しゅうがくりょこう)とは、小学校中学校高校の公式行事の一つで、教職員の引率のもとに、児童・生徒が日常経験しない遠隔地の自然や文化を見学し、宿泊を伴い、学習の目的を行う旅行。同じ宿泊を伴う学校行事である林間学校臨海学校とは宿泊先が野営地や少年自然の家ではない点が異なる。授業の一環であり、年間の出席しなければならない日数に修学旅行の日数も含まれ、高等学校では卒業に必要な単位に含まれている。

概要[編集]

修学旅行の時期は学校生活の最終学年の1学期中に行われるが、進学校だと最終学年の前の年になることもある。小中学校(義務教育)の修学旅行の時期は6月の上旬〜中頃の範囲。高校の修学旅行の時期は、5月の終わり頃〜6月の上旬の範囲。修学旅行が終わると、約10日後に写真が飾られる。なお学校によっては社会科歴史学習や他の行事との関係で実施時期を2学期としている学校もある。

修学旅行は学習指導要領の特別活動の1分野に含まれる「旅行・集団宿泊的行事」の一つだが、学校によっては様々な理由(例:受験勉強に支障を来すなど)で行わない事がある(後述)。

手配[編集]

教員が現地へ出向いて交通機関や宿泊施設を手配するのは不可能であり、この場合は業者の手を借りることにもなる。業者にとっては場合によっては数百人もの仕事が出来るので、業者の営業は熾烈である。

宿泊施設などの受け入れ先でもまとまった収入になるからと受け入れに積極的な所もあるが、逆にあまり受け入れたがらない所もあるという。

歴史[編集]

戦前[編集]

現代の修学旅行にあたる行事は1886年2月15日から2月25日東京師範学校 (後の東京高等師範学校、現筑波大学)によって始まった「長途遠足」であった。この時は生徒は小銃を持ち、徒歩で行う「軍事教練」であり途中で実弾射撃訓練も行った。この年から兵式教練が実施され、中等学校 (師範学校[1]も含む)には在郷の尉官、准士官下士官を教練教師または体操教師として雇用していた。1890年代以降全国に徐々に広まっていった。1897年からは鉄道乗車券の割引が行われるようになった。鉄道も使われるようになり、行き先は小学校は国内であったが、義務教育ではなく、裕福な家庭の子女が通う中等学校以上では外地とされた朝鮮半島満州国にも行き先が広がっていった。1930年代からは皇国史観の影響で行き先が伊勢神宮皇居靖国神社へと行き先が変わり、そこでの勤労奉仕が加わった。しかし、太平洋戦争勃発後、戦争の激化によって修学旅行は廃止された。

太平洋戦争末期には集団疎開という形で大都市から農村部への国民学校生徒の移動があった。

戦後[編集]

太平洋戦争終結翌年には高等女学校の修学旅行が開始されたという記録がある。この時はの持参が求められ、これは1960年代中頃まで続いた。1950年代以降修学旅行が本格的に再開されると今度は輸送力不足に悩まされた。4人掛けボックスシートに6人が詰め込まれ、それでも輸送力が足りず、補助席を設置したり、通路にごろ寝をする有様であった。また、手動式の扉から転落する事故もあった。輸送力不足の解消のために日本国有鉄道国鉄155系電車を、近畿日本鉄道近鉄20100系電車を登場させた。行き先は東北地方では圧倒的に東京が多かった。集団就職で東京を目指す生徒が多く、将来東京に出て恥をかかないようにという配慮や高度経済成長前は家族旅行が一般的ではなく、地元を出ないまま大人になっていく子供に外の世界を見せる目的もあった。

現状[編集]

特別急行列車新幹線飛行機の利用が認められるようになって行き先も多様化し、私立学校を中心に生徒募集にプラスに作用する、国際化の時代に必要などの判断から海外を行き先とする学校も出てくるようになった。先輩がミッキーマウスを池に投げ込んだ・着ぐるみの頭を無理やり外した等の行為で出入り禁止になった建前は学習の一環であって遊びではない、本音は予算がないという理由で自由行動でも行くことが出来ないとされていた東京ディズニリゾートを筆頭とする国内のメジャーなテーマパークが行程内に含まれる所もある。
家族旅行に行く家庭が大多数となった現代でも、家庭の事情(裕福でない・家業の都合など)で旅行に行けず地元を出ないまま大人になっていく子供に外の世界を見せる、外の世界と地元は地続きの存在で自分でも行ける場所であることを理解させるという目的もあり、教育的な意義の強さから多くの学校が修学旅行を継続している。

実施状況[編集]

修学旅行の行き先として、かつての日本の首都であった京都市奈良市、現在の首都である東京都太平洋戦争末期の地上戦の悲劇が起きた沖縄県原子爆弾が投下された広島市長崎市といった平和学習にふさわしいところが多い。また、公害病の発生した水俣市を選ぶ学校もある。これを見た限り、社会科の授業で取り上げられた都市が多い。また、関西圏においては、近鉄の陰謀により伊勢志摩地域を中心とする三重県に行くケースも多い。

  • 愛知県の公立学校の場合、小学校は、京都・奈良方面へ。中学校は、東京方面へ。名古屋市の公立高校は、瀬戸内・神戸方面へ。
  • 東京都の公立学校は小学校で日光、那須、伊豆、箱根など。中学校で関西方面など。
  • 兵庫県の小学校の場合、伊勢・志摩が定番。少数派の行先として広島がある。
  • 降雪地域ではない学校では修学旅行でスキーに行く所がある。表向きは「学校を卒業するまでに1度は経験させたい」という理由だが、荒れた学校で行き先を街にすると部外者相手にトラブルを起こす生徒でも何もない雪山に閉じ込めておけばトラブルを起こさないからだという。
  • 前述の通り行き先が海外に設定されている学校もある。私立はヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアといった遠方が多く、公立は距離的に近い中国・韓国を筆頭にアジア圏が選ばれやすい。なお大都市以外の公立校で修学旅行の行先を海外としている所は、地元の空港を発着する国際線の平均搭乗率を確保する目的もあるらしい。
  • 自衛隊施設や在日米軍基地を修学旅行先に選ばれた事実は確認できない。現代社会でもっとも重要な事柄であり、在日米軍基地ならば日本国内において海外交流ができそうであるが、難しい事情があると思われる。

費用[編集]

団体割引が適用されるが、適用人数より少ないへき地等級の学校では特例がある。

参加にかかる費用は毎月一定額(数千円~1万円単位)を修学旅行費の名目で積み立てておいてそれで支払うか、出発前の規定の日に一括で登録した預金口座から引き落としとなるかは学校によって様々。

事故[編集]

海難、列車事故、宿泊施設からの転落で生徒が命を落とすこともあった。修学旅行ではないが、それに準ずる宿泊学習などで津波離岸流に呑まれて死亡するといった事故もあった。

欠席・不参加[編集]

当日に風邪をひくなど不運な病気による修学旅行の欠席は時折見られるが、部活動の大会やコンクールと修学旅行の日程が運悪く重なってしまい、修学旅行を欠席せざるを得ないという事例も存在する。野球部が大会に出場することになり、その応援に吹奏楽部が駆り出されることになって野球部と吹奏楽部の部員が修学旅行を欠席するというケースも。
逆に、修学旅行を優先して出場・参加を辞退する事例もある。定時制高等学校の場合、仕事が忙しくて不参加となる場合もある。

海外を行先としている学校では国内と比較すると高額化しやすい費用や治安に対する不安などで保護者や本人の申し出により欠席を選ぶ者も見受けられる。

前述の通り、年間の出席しなければならない日数、卒業に必要な単位に修学旅行も含まれており、登校が可能な場合は学校で自習、登校できない場合は後日の欠席補充の対象となる。

出発進行[編集]

修学旅行は、クラスメイト、先生だけで外泊するため、先生方は様々な気苦労がある。

下調べ[編集]

修学旅行が実施される数ヶ月前から学活/ロングホームルーム・総合的な学習の時間を利用して行われる。図書室に収蔵されている行き先に関する本を利用したり、パソコン室のパソコンでインターネットを使って調べたりなど。この時に行き先でどこに行きたいかなどをピックアップする。

公式(栞に書いてある)[編集]

宿での生活班、行動班、交通機関の席決め[編集]

これらを決めるのは、多くの場合修学旅行の1ヶ月〜1週間前に行われる。生徒にとって、生活班や行動班は特に大事な要素の一つであるため、一喜一憂する人も多い。好きな子や仲のいい友達ばかりの班になって喜ぶ人がいる反面、嫌いな人やこれまで接点が皆無などうでもいい人ばかりの班になってしまい、絶望する人も多い。友達がいないと、同じ班候補がいないため最後まで残ってしまい、とりあえず人数が足りない班に入ることになり絶望する。入ることになる班は、性格の明るい人ばかりで余計辛い。稀に、先生が全て決めてしまう事がある。そうなるとクラス、学年全体で絶望することになる。なお、小規模校で一学年数人のクラスでは班分けそのものが存在しない。

移動中の交通機関[編集]

出発時刻は早朝が多いが、かつて夜行列車の運行が多かった時代は深夜出発のときがあった。長野県では午前2時台の出発があった。現代でも中距離フェリーを使用するときは未明出発のときがある。離島ではを使うことになるが、悪天候で欠航となったときはどうするのかは確認できない。車窓が楽しめる車両での移動はともかく、飛行機や外洋を航行中のでの目的地への移動中は、退屈な時間である。そのため、機内や船内で係主導のレクリエーションが行われることが多い。レクリエーションが無い場合、トランプ等のゲームになるのが一般的。しかし、ここ1,2年コロナウイルス感染防止のため、機内や船内ではレクリエーションどころか友達、近くの人との会話が禁止され、寝るか窓の外の景色を眺めるぐらいしかやることが無くなってしまったが、鉄道やバス移動の場合は鉄道ファンや道路ファンなら十分に楽しめる。車両の写真を撮る人もいる。でも車内でお喋りしている人は相当いる。3分の2ぐらい?先生も寛容で、あまりにもうるさく無ければ注意しない(かもしれない)。バスによっては車内にテレビが付いており、映画を流すこともある。バスガイドの解説はまあまあ聞いている。

初日の観光[編集]

バスや電車の乗り降りがだるく思えてくる。結局楽しい。

食事[編集]

初日朝出発の場合の昼食は家から持ってきた弁当となる。この場合、容器は使い捨てにするように指導される。容器を洗うことができないからである。種村直樹鉄道ジャーナルの列車ルポで修学旅行生と同じ車両に乗車したとき、この使い捨て容器を見て「コンビニエンスストアスーパーマーケットの弁当を持ってくるとは何事か、時代は変わったな」と書くと、同じ車両に乗っていた修学旅行生の読者から「学校から使い捨て容器にするよう指導がありました」と手紙を受け取り、種村直樹は翌月号で読者に謝罪した。一方、定時制高校で生徒が皆成人だった場合は先生と一緒に交通機関の中で酒盛りとなることがある。

夜のレクリエーション[編集]

キャンプファイア、肝試し、ビンゴ大会、仮装大会、演劇など。思い出の上位に残っている人も多いのでは無いだろうか。

観光[編集]

皆さんお待ちかね...(?)の観光。文化だとか建物がすごい。自由行動が楽しい。だが足が疲れる。

日程の中のどこかしらに自由行動の設定がある。規定の集合時刻までに集合場所に戻ってくるように伝えたら解散。気の合う友人と定番の観光地を巡るというオーソドックスな過ごし方から、個人の趣味に走った過ごし方をする者まで多彩。(靖国神社参拝、被差別部落探訪、自衛隊施設見学、神風特攻隊慰霊施設敬礼、スタリオンステーション見学)

非公式(生徒が勝手にやっている)[編集]

禁止物の持ち込み[編集]

ゲーム機、必要以上の現金、スマホetc...修学旅行に持っていってはいけないと言われている物を、持ってくる人が必ずいる。最後まで隠し通すか、途中で先生にバレて没収されてたまるか。初日に先生に自己申告すれば、軽い罰で済むかもしれない。

バレて没収されるだけならまだしも、夜中に長々と説教を受けたり、緊急学年集会と称してホテル・旅館の大広間に学年全員が集められて長々と説教を受け、予定されていた自由行動の時間が罰として無しになったりという最悪のケースも。

布団敷き[編集]

誰がどの布団にするか、どこの布団にするか。布団の山にダイブしたり、掛け布団か敷き布団がわからなくて隣の部屋に聞きに行く。地味に盛り上がる。

消灯後[編集]

消灯したら、我らの時間。 先生に注意しながら、お喋りその他をエクストリームに楽しむ。最初はみんな先生を警戒するが、2時間ほど経って気が抜けて来ると声が大きくなり、先生にバレる。徹夜チャレンジや一番遅く寝るチャレンジをするチャレンジャーも現れる。チャレンジャーの3分の1は生き残る。(のか?)先生怖い。

修学旅行の意義を問う声[編集]

高度経済成長を経て、平均所得の上昇や交通インフラの整備などによって家族旅行に行く子供が大多数となった現代では修学旅行の実施意義を問う声も目立つようになってきた。教員の下見にかかる費用が自腹、当日の宿泊先で寝ずの番を強いられる、介護や育児の事情を抱える中堅・ベテラン教員の負担回避のために若手教員ばかり引率をさせられるなど一部に過剰な負担を強いている、子供の貧困で参加費用の支払いが困難などの事情から修学旅行の規模縮小や廃止といった見直しに踏み切った学校も少ないながら存在し、富山県では公立小学校と県立高等学校普通科で修学旅行を実施していない。
また、島根県立高校の大半のように、修学旅行の代わりに大学などへの校外学習といった、校外でのより探究的な学習に移行している例もある。

なお、生徒・保護者側の主張で実際に修学旅行を廃止・見直しに至った例は少なく、更に修学旅行廃止の論調を張るのは学生時代に友達が居ない暗い人という意見があるが、それについては確認が取れない。団体旅行にしては費用が高く、海外に行く理由がない、物見遊山に終始しているとの批判もある。

[編集]

  1. 1917年までは師範学校卒業の兵役検査甲種、第一乙種合格者は六週間の現役制によって服役し、終了後国民兵役に編入された。

関連項目[編集]

参考文献[編集]