東京師範学校
東京師範学校(とうきょうしはんがっこう)は、1872年(明治5年)、文部省直轄で日本最初の師範学校として創設された教員養成学校(官立師範学校)である。現筑波大学の前身校のひとつで、一時お茶の水女子大学の前身校ともなった。
歴史[編集]
文部省は学制公布(同年9月(旧暦8月))に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視し正院に「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を明治5年(1872年)4月22日に提出し、同年5月13日に認可を受けたことにより、同年7月4日、「師範学校」が設立されることが決まり、同時に生徒募集が布達された。応募者は300名あまりとなり、入学試験を同年8月に行い、54名を「本校付小學生徒」として入学を許可した[1]。
師範学校校則 1.外国人を一人を雇い之を教師とすること 1.生徒二十四人を入れ之を師範学校生徒とすること 1.別に生徒九十人を入れ之を師範学校付小學生徒とする事 1.教師と生徒の間通弁一人を置くこと 1.教師二十四人の生徒に教授するは、一切外国小学の規則を以てすること 1.生徒は都て官費とすること 1.成業の上は免許を与え速やかに之を採用し四方に分派して小学生徒の教師とするべきこと
9月(旧暦7月末)に諸葛信澄を初代校長として開校された「師範学校」は、師範教育に詳しいアメリカ人教育者マリオン・スコットを教員に招聘し、坪井玄道が通訳となった。教員・教具すべてをアメリカから取り寄せ、アメリカの公教育をモデルとした近代的な教育(一斉教育法やペスタロッチ主義直感教授法)を伝授するなど、アメリカの小学校の教授方法をそのまま導入し小学校教員の養成を始めた明治5年(1872年)、東京湯島旧昌平黌に「師範学校」として開校し、講堂を教室とした。第1回の「師範学校」卒業生は、各府県の教員養成機関の訓導や府県庁の学務担当吏員となり、教授法・教育課程を全国に普及させていった。
明治6年(1873年)、大阪と仙台にも官立師範学校が設立されたため,同校を東京師範学校と改称した。米人教師スコットが辞任したのちは日本人教師が教授するようになった。
明治8年(1875年)からは中学師範の養成を開始した。西南戦争による財政難により、小学校教員の養成が府県立の師範学校に移管されるようになると、官立師範学校による小学校教師の育成は不要となり、東京師範学校は次第に中等学校教員の養成機関となっていった。
明治18年(1885年)には東京女子師範学校(およびその附属学校園)を統合して「女子部」とし、東京師範は全国唯一の官立師範学校となった。明治19年(1886年)2月に行われた「長途遠足」は、今日普及している「修学旅行」の嚆矢と考えられている[2]。
1886年(明治19年)4月の師範学校令により尋常師範学校と区別される高等師範学校が制度化されると、東京師範学校は「高等師範学校」と改称し、女子部は「女子高等師範学校」として分離した。