種村直樹

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種村 直樹(たねむら なおき、1936年3月7日 - 2014年11月6日)は、日本著述家随筆家評論家作家滋賀県大津市出身。

生涯[編集]

滋賀県出身。滋賀県立大津高等学校(現・膳所高校)、京都大学法学部卒業後、毎日新聞社に入社。大阪、名古屋で社会系の記者として勤務し、名古屋勤務時代は1968年飛騨川バス転落事故でスクープを取りつつ、鉄道記者クラブ加入の記者として、行楽系の記事も出稿した。のち東京転勤となったが、鉄道系からの配転内示が出たのを機に、1973年に毎日新聞社を退職。鉄道系のフリーライターに転身して、70歳過ぎまで活躍した。

晩年[編集]

レイルウェイライターとして[編集]

新聞社退職後、レイルウェイライターの肩書を使ったフリーライターとして、主に毎日新聞記者時代から親交のあった鉄道ジャーナル社ルポコラムを執筆した。

汽車旅相談室[編集]

鉄道ジャーナル社の雑誌「旅と鉄道」では、自宅の東京都足立区竹ノ塚のマンションの住所を公開して読者から相談の手紙葉書を受け取り、これに回答するスタイルをとる「種村直樹の汽車旅相談室」の回答者として活躍。後に実業之日本社中央公論新社から過去の回答をまとめたムックも発売された。

日本列島外周気まぐれ列車[編集]

1980年東京日本橋を出発し、日本列島を時計の反対回りに公共交通機関の鈍行のみで辿る種村直樹のライフワーク。1年に4回、1回につき5日間を費やし、公共交通機関のないところは徒歩やレンタサイクル、貸切タクシーを使うなどして約30年かけて東京日本橋へ戻った。行き先の下調べもせず、大人数でも宿の予約もせずに行ったので宿のおかみさんがあきれたこともある。現在では路線バスが廃止されたり、国道229号国道305号のように海沿いの道路地滑りで崩壊し、付け替えによって当時のルートを辿れないところが多くある。「旅と鉄道」誌にて執筆。

最長片道切符[編集]

国鉄分割民営化直前、通過連絡運輸に準じた扱いが実施されていた国鉄バスも絡めた最長片道切符の旅を行った。これにより日本列島外周気まぐれ列車は休止。「鉄道ジャーナル」誌にて連載。

旅行貯金[編集]

郵便局の窓口で10円以上の貯金をし、支払い欄に郵便局のゴム印を、欄外に主務者印を押してもらうことをいう。この趣味自体は以前からあったが、著書の鉄道旅行術や、前述の日本列島外周気まぐれ列車で紹介し、世間に広めたのは種村直樹だった[1]。また、官製葉書相当額の切手を用紙などに貼って局員に押してもらう方法で、風景印も集めていた。

ミニ新幹線[編集]

山形新幹線建設に伴う奥羽本線改軌には一貫して反対の立場を取った。種村は、改軌による新在直通は仙山線の改軌の方が良いという考えで、テレビユー山形開局で山形県にネットをし始めたサンデーモーニングなどで、以下のように現行の山形新幹線に対する弊害を主張していた。

  1. 乗り換えの不便が福島駅から移動するだけ
  2. 夜行路線網としての奥羽本線の分断
  3. 利用不振の駅の整理

その他[編集]

著書[編集]

ウィキペディア[編集]

「フェン」と「アチン」による編集合戦が起きた。エンペディアではそのようなことはない。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 訪れた郵便局の数の貯金をしていた。

外部リンク[編集]