鎌倉殿

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鎌倉殿(かまくらどの)は、鎌倉幕府首長、すなわち最高権力者である征夷大将軍を指す称号である。

概要[編集]

「鎌倉殿」の称号が史料上で確認できるのは、『吾妻鏡』の寿永2年(1182年)5月25日条にある治承6年5月日付文書である。つまり、平氏政権が存在していた頃に、既に関東で政権を構築しつつあった源頼朝は、平氏政権とは別の政権の最高権力者と見なされていたというわけである。鎌倉幕府の成立年に関しては諸説があるが、この吾妻鏡の記録もその根拠の1つとなっている。

ただ、源氏将軍すなわち頼朝とその長男・源頼家、次男・源実朝の時代は、「征夷大将軍=鎌倉殿」であったが、実朝が死亡して以降の将軍、すなわち摂家将軍親王将軍らは実権力が全く無い傀儡であり、「征夷大将軍=鎌倉殿」と見なされるかどうかには疑問符がつく。関東下知状などにおける鎌倉幕府の公式文書では「鎌倉殿の仰せ」という形式で文書が発給されることが多かったが、少なくとも実朝亡き後の幕府は北条氏による執権政治が展開されており、鎌倉殿を将軍ととるか、執権ととるかは諸説があると思われる。

鎌倉殿はその時点における幕府の最高権力者を指す用語であり、つまりそれは将軍から任じられた諸国守護の統率者として、そして御家人全ての主君としての性格を持つ存在である。しかし、鎌倉時代後期などは既に将軍は執権によって廃立されるのが常態化しており、幕府滅亡時などは新田義貞が挙兵した際に、鎌倉側の最高指導者を得宗北条高時と定めて、名目的な執権だった守時や将軍の守邦親王の存在を全く無視しており、実際に幕府滅亡時における守邦の動向は史料にすら残されておらず、将軍という存在が忘れ去られているに近い状態にあった。

そのため、時代により「鎌倉殿=征夷大将軍」もあれば、「鎌倉殿=執権」あるいは「鎌倉殿=得宗」もあるのが実情といえる。

その他[編集]

室町幕府鎌倉府の長官も当初は京都の将軍の代理として「鎌倉殿」と呼ばれた。