後高倉法皇

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後堀河天皇の父・後高倉院(守貞親王)『天子摂関御影』より

後高倉法皇(ごたかくらほうおう、治承3年2月28日1179年4月6日貞応2年5月14日1223年6月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての皇族実際に天皇位の地位に就いたことは無いが、没後の追諡において後高倉院(ごたかくらいん)と贈られ、承久の乱後に太上天皇の尊号を贈られて息子の後堀河天皇の下で2年間の院政を行なっていた経緯から、実際に天皇としての政務を代行していたことから、天皇・法皇と同等の地位にあったものと見なされている異例の人物である。守貞(もりさだ)[1]

生涯[編集]

冷遇される前半生[編集]

父は第80代天皇の高倉天皇で第2皇子[1]。母は坊門信隆の女・殖子(七条院)[1]。五条坊門大宮の大舎人頭の藤原兼盛の屋敷で生まれる[1]

第81代天皇の安徳天皇は異母兄にあたり、第82代天皇の後鳥羽天皇は同母弟に当たる。初め持明院宮(じみょういんのみや)を号し、出家した後は行助入道親王(ぎょうじょにゅうどうしんのう)を名乗った。

出生した時期は平清盛平氏政権の絶頂期であり、そのため清盛の子である平知盛に養育された[1]。清盛没後の寿永2年(1183年)に源義仲の侵攻を受けて平宗盛が都落ちを決意した際、安徳天皇とともに西国に伴われ、安徳天皇の皇太子に擬せられた[1]。2年後の壇ノ浦の戦いで平氏が源義経に敗れて滅亡すると京都に戻り、文治5年(1189年11月親王宣下を受けて守貞と名乗り、建久2年(1191年12月に六条殿で元服し、三品に叙せられたが、建暦2年(1212年3月出家して行助という法名を名乗った[1]。後鳥羽天皇の実兄でありながら、平氏政権に擬せられた過去から冷遇されたのである[2]

実際の治天の君になる[編集]

承久の乱後、鎌倉幕府北条義時は責任者として後鳥羽上皇順徳上皇土御門上皇らをそれぞれ流罪に処し、仲恭天皇は廃位した。義時は後鳥羽天皇の血統を皇位に就かせないようにするため、承久の乱と無関係だった入道行助親王に院政をとるように要請し、その見返りとして後鳥羽上皇の御領を献上した。そして新たな天皇には行助親王の息子である茂仁王が後堀河天皇として践祚した[1]。後堀河天皇は即位した時点で数え10歳の少年天皇のため、8月に行助親王に太上天皇の尊号が与えられて院政が開始された[1]

2年間の院政の後、貞応2年(1223年)5月14日に持明院殿で崩御した[1][3]享年44。死後、後高倉院の諡号が贈られている[1]

系譜[編集]

その他[編集]

寛政期に尊号一件問題が起きた際、朝廷は後高倉院の先例を下に、光格天皇の実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたが、朱子学を尊重する松平定信が「後高倉院の事例は承久の乱の後始末的なもので、政情安定時に行うことではない」と反対し、生前の贈与を断念した。結局、典仁親王の玄孫の明治天皇によって1884年に「慶光天皇」の諡号と共に太上天皇の尊号が追贈された。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P215
  2. 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月)、P221
  3. 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2006年10月)、P222

参考文献[編集]