源氏将軍

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源氏将軍(げんじしょうぐん)とは、源氏の血統を引く武家が征夷大将軍になったことを指す。広義においては鎌倉幕府室町幕府江戸幕府の3幕府共に源氏の血統を引く一族として征夷大将軍に就任し、それぞれ幕府を開いている。狭義においては鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝、第2代将軍・源頼家、第3代将軍・源実朝の3名を指し、実朝が後継者無く暗殺されたことをもって「源氏将軍は断絶した」と言われるのが通説となっている。

概要[編集]

広義における源氏将軍[編集]

鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3幕府共に、源氏の血を引くということを一種の旗印にして征夷大将軍に就任し、それぞれ幕府を開いている。ただし、江戸幕府を開いた徳川氏新田氏の一族と称しているが、実情は不明で、どこの馬の骨ともわからず、新田氏の分流の世良田氏のさらに分流の得川氏の一族を仮冒した疑いもある。

また、鎌倉幕府7代将軍の惟康親王は将軍在位の大半で臣籍降下して源惟康を名乗ったが、後に皇籍に復帰した。

狭義における源氏将軍[編集]

鎌倉幕府を開いた源氏は、最狭義では臣籍降下した清和天皇の子孫の清和源氏のうち、源頼朝の高祖父の頼信源満仲の三男)を氏祖とし、河内から後に坂東を根拠にした河内源氏の子孫の系統である。
初代将軍源頼朝の死後、長男の頼家が2代将軍に就任したが、若年であり器量にも欠けたことから幕政の主導権をめぐって御家人の間で激しい権力闘争が勃発した。この中で頭角を現したのが北条氏であり、北条時政比企氏を滅ぼすと頼家を将軍職から廃して幽閉し、後に殺害。そして第3代将軍には頼朝の次男で頼家の同母弟である実朝を擁立した。

実朝は子供に恵まれずして、建保7年(1219年)1月27日に甥の公暁によって暗殺された。公暁も後に事件の咎により処刑された。これをもって「源氏将軍の断絶」とされているのは、以後、頼朝と女系でしかつながらない摂関家から将軍に迎えられた摂家将軍となり、さらに源氏の血から遠い宮将軍が就任したからである。
ただし、実朝と公暁が死亡した時点ではまだ頼家の子で公暁の弟である禅暁が存命しており、源氏の血統自体が断絶したわけではなかった。ちなみに、禅暁も実朝の死の翌年に殺され、これをもって頼朝の血を引く男子は全て死に絶えた。そして女系としては頼家の娘・竹御所がなおも生きていたが、彼女も天福2年(1234年)に死亡し、子供も無かったことから頼朝の子孫は完全に断絶することとなった。

なお、ここで言われる源氏の血とはあくまで頼朝の血を引く河内源氏の直系子孫のことを言うのであり、頼朝以外の清和源氏の一族は、この後もなお存続している。ちなみに戦国大名の武田氏や鎌倉幕府成立時は常陸で頼朝と対抗した佐竹氏も河内源氏の傍流である。

関連項目[編集]