牧の方
牧の方(まきのかた、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性。鎌倉幕府の初代執権・北条時政の継室。子は北条政範、平賀朝雅室、三条実宣室、宇都宮頼綱室。
生涯[編集]
駿河国で生まれたとされる。『吾妻鏡』の記録によると牧宗親が牧の方の兄弟とされているのだが、一説に宗親を父親とする説もあり、このあたりの血縁関係ははっきりしていない。
鎌倉幕府の初代執権となる北条時政の後妻として嫁ぎ、その間に多くの子女を生んでいる。ただし、男子は政範しか生まれず、その政範は後に早世している。
源頼朝の死後、鎌倉では熾烈な権力闘争が繰り広げられるが、元久元年(1204年)11月に牧の方と時政の間に生まれた長女の婿である京都守護・平賀朝雅が有力御家人の畠山重忠の子・畠山重保と京都において酒宴の席で争い、これを牧の方に訴えるという事態になる。牧の方はこれを時政に「重忠の謀反」と讒言し、時政はこれを受け入れて重忠を討伐しようと画策した(畠山重忠の乱)。この時政の行為に前妻の子である北条政子・北条義時らはいずれも諌めたが、時政は聞き入れずに畠山父子を殺害する挙に出た。この行為は他の御家人から時政・牧の方夫妻に対する不満を引き起こし、さらに前妻の子である政子や義時との対立も引き起こすことになった。
元久2年(1205年)になると、牧の方は時政と共謀して今度は第3代征夷大将軍・源実朝を廃し、新将軍に頼朝の猶子であった自分の婿である平賀朝雅を擁立しようという陰謀を画策する(牧氏の変)。そして、牧の方は陰謀に消極的な時政を引っ張り込んで実朝の暗殺を画策したが、既に以前の行為で対立に転じていた政子・義時らの反撃を受けて陰謀は露見。実朝は政子・義時らの庇護下に置かれ、時政と牧の方は幕府内で完全に孤立無援となり、閏7月20日に時政は出家して伊豆北条に追放されて隠居することを余儀なくされた。
時政はそれから10年後に死去したが、もともと年齢の離れた夫妻であったためか牧の方はまだ存命であり、平賀朝雅の妻だった長女が公家の権中納言・藤原国通に再嫁していた縁を頼って牧の方は京都の娘夫妻の元に身を寄せ、贅沢に暮らしていたという。嘉禄3年(1227年)3月に国通の邸で夫・時政の13回忌を行ない、一族を引き連れて諸寺詣を行っている様子が『明月記』に記され、筆者の藤原定家はこの時の牧の方の振る舞いを批判している。