永仁の徳政令
永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)とは、永仁5年3月6日(1297年3月30日)に発布された鎌倉幕府の法令である。
概要[編集]
法令について[編集]
『東寺百合文書』に以下のように伝わる法令である。
- 関東御事書の法
- 一.質券売買地の事、永仁五年三月六日
右、地頭・御家人の買得地に於ては、本条を守り、廿箇年を過ぐる者は、本主取返すに及ばず。非御家人幷びに凡下の輩の買得地に至りては、年紀の遠近を謂はず、本主之を取返すべし。
関東より六波羅に送られし御事書の法
- 一、越訴を停止すべきの事
- 一、質券買地の事
- 右、所領を以て或は質券に入れ流し、或は売買せしむるの条、御家人等侂傺の基なり、向後に於ては停止に従ふべし。以前沽却の分に至りては、本主をして領掌せしむべし
これは現代語に訳すと次のようになる。
- 鎌倉幕府が発した箇条書きの法令
- 一、質に流れたり、売買された土地の事、永仁5年(1297年)3月6日
- これについて、地頭御家人の買得地は、貞永式目第八条の通り、二十年を過ぎたものは元の所有者が取返すことができない。ただし、非御家人や庶民が買い取った土地については、年数にかかわりなく元の所有者はこれを取返すことができる。
鎌倉幕府から六波羅探題に送られた箇条書きの法令
- 一、越訴を禁止すべき事
- 一、質に流れたり売買された土地の事
- これについて、所領を質に入れて流したり、売却することは、御家人らの窮乏の原因である。今後これらのことを禁止する。以前売却した分については、元の所有者が領有せよ
解説[編集]
文永の役・弘安の役という2度の元寇をはねのけた鎌倉幕府であったが、これらの戦いはあくまで遠征してきた敵軍を撃退した典型的な防衛戦で、領土を奪ったわけではなかったため、活躍した御家人に対して十分な恩賞を与える余裕がなく、そのために御家人の経済的窮乏を招いたり、御家人が幕府に対して不信感を強めるようになった。生活に困った御家人は商人(借上)に対して金を借りたり、土地を抵当に入れたりして凌いでいたが、御家人の窮乏はますます進むことになる。
鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時はこのような御家人の窮乏を救うために永仁の徳政令を出したのだが、これはかえって非御家人や借上の反発を招いた。なぜなら、これまでの借金を棒引きして抵当に入れた土地を全て無償で御家人に返せ、というものだったからである。幕府の強権に非御家人や借上は止む無く従ったものの彼らの反発は凄まじく、かえって御家人が以後金を借りることが難しくなり、ますます経済的混乱、御家人の窮乏化が進むことになる。そのため、北条貞時は翌年になって法令の一部撤回を余儀なくされている。
この徳政令によりかえって幕府の無策が露呈し、得宗専制政治による幕政の腐敗、御家人の所領の分割相続による細分化で、御家人の没落はますます進行して鎌倉幕府はますます衰退してゆくことになる。
関連項目[編集]
- 寛政の改革 - 棄捐令を出し、同様に貸主に反発された。