北条政子
北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性。鎌倉幕府を開いた初代征夷大将軍である源頼朝の御台所にして政治家。
生涯[編集]
出生と頼朝との出会い[編集]
伊豆国の豪族である北条時政の長女。母は未詳だが、北条時子の同母姉妹とみられている。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。
平治の乱で敗れて罪人となり、伊豆に流罪に処された頼朝の監視役に父の時政が選ばれたのが、政子にとって頼朝と出会う契機となった。頼朝と政子の結びつきについては治承元年(1177年)前後の事と見られている。頼朝はこの前に時政と同じく監視役の伊東祐親の娘と密通事件を起こしており、さらに言うと当時は平氏政権が平清盛の下で絶頂期にあったため、時政は清盛に咎められることを恐れて政子を伊豆の目代であった山木兼隆と強制的に縁組させることにした。ところが、政子は縁組前日の深夜に伊豆山の頼朝の元に豪雨の中を向かったとされている(『吾妻鏡』『源平盛衰記』)。これにより、時政もやむなく政子と頼朝の仲を認めざるを得なくなった。
頼朝と政子が結ばれ、長女の大姫が生まれた頃、平氏政権は後白河法皇との対立から内紛を繰り返し、次第に衰退の色を見せ始めたので、時政はこの情勢変化を見て頼朝を娘婿に迎えるとともに、源氏再興を目指す頼朝を一族を挙げて積極的に支援するようになった。
治承4年(1180年)に頼朝が以仁王の令旨を受けて挙兵し、石橋山の戦いで敗北こそしたものの盛り返して関東をほぼ制圧し、鎌倉に居を構えた頼朝から政子は正室として迎えられることになる。頼朝との仲は良かったようで、大姫の後も長男の頼家、次女の三幡、次男の実朝を相次いで産んだ。しかし、一方で大変嫉妬深く、頼朝の愛妾・亀の前に嫉妬しその館を壊した亀の前事件を起こしたりもしている。
頼朝が存命中から、政子は既に政治家としても活動していた。平氏政権を滅ぼし、鎌倉幕府を創設して次第に安定期にさしかかりつつある建久6年(1195年)、政子は頼朝に従って上洛し、当時女流宮廷政治家として朝廷に絶大な影響力を誇っていた丹後局と会見し、長女の大姫の入内問題などについて意見交換などをしている。また、頼朝が長男の頼家を必要以上に甘やかしたりするのを諌めたりしたという。
政権闘争[編集]
正治元年(1199年)に頼朝が急死し、その跡を頼朝と政子の間に生まれた長男である頼家が継承した。この際、政子は出家して尼となった。
第2代将軍となった頼家は自らの側近を重用して御家人を無視した専制を展開したので御家人の間で反発が生まれる。頼家は自らの外戚である比企能員を重用していたが、実家の北条氏の地位向上を志向する政子はこれに反発して父の時政、弟の義時らと協力して頼家から将軍独裁権を剥奪して十三人の合議制を定めた。建仁3年(1203年)に頼家が重病に倒れると、それに乗じて時政、義時と共謀して頼家が掌握していた日本国総守護職、総地頭職を頼家の長男・源一幡と弟の実朝に分割譲与した。これに不満を抱いた比企能員に対しては軍事的行動を起こして能員をはじめとした比企氏一族や一幡を丸ごと滅ぼすという挙に出た(比企能員の変)。重病に倒れていた頼家はこの変事が起こった頃に回復して一連の出来事を知ると激怒し、時政の討伐を命令するも応じる者は無く、政子はこれに乗じて頼家の将軍職を廃した上で出家させて伊豆修禅寺に幽閉。第3代将軍には頼朝と政子の次男である実朝を擁立して、自らは生母としてその後見人となった。
元久2年(1205年)、畠山重忠討伐問題、いわゆる畠山重忠の乱を契機として時政と政子・義時の間で対立が発生。同年7月に時政は政子の継母・牧の方と共謀して実朝を廃して平賀朝雅を新将軍に擁立しようという陰謀を企てた(牧氏の変)。この陰謀を知った政子は直ちに実朝を自らの手元に引き取って庇護し、時政派の御家人を巧みに切り崩して父を孤立無援に追い込むと、父と継母を出家させて伊豆北条に追放・幽閉に処した。その後は弟の義時と協調して幕政の運営に当たっている。
実朝の時代には朝幕関係の緊張、特に後鳥羽上皇による倒幕の機運が高まるなど問題が発生しており、政子は朝幕関係の改善を目的として建保6年(1218年)に自ら上洛し、子に恵まれない実朝の後継者の将軍として後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎えるように画策し、当時まだ存命して朝廷に影響力を誇っていた丹後局と会談してその内諾を得ることに成功している。
承久の乱[編集]
承久元年(1219年)1月、実朝が甥の公暁によって暗殺される事件が起きる。この事件により、後鳥羽上皇は前年に政子に与えていた親王将軍の鎌倉下向を拒否して密約を破棄したため、政子はやむなく頼朝の遠縁に当たる左大臣・九条道家の4男・九条頼経を後継者として迎えるに至った。
実朝の死により幕府は危機的状況に陥り朝幕関係も破綻。幕府は創設以来最大の危機を迎えるに至るが、政子は義時と協力してこの難事に立ち向かい、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が北条義時追討の宣旨を下して承久の乱を引き起こすと、政子は頼朝の正妻として多くの御家人を前にして頼朝の恩義を説き、幕府御家人の結束を促す女性として前代未聞の大演説をぶち上げた。これが現在まで政子を「尼将軍」とまで言わしめる所以であり、この政子の演説を受けて結束した幕府方は圧倒的大軍を編成して京都に差し向け、朝廷方の軍勢を破って大勝利を遂げることになる。
承久の乱後、幕府は義時の下で後鳥羽上皇ら3上皇の流罪、首謀者の処分、六波羅探題の設置や新補率法地頭の設置などの政策を実施しているが、これは義時を後押しする政子の協力があったといわれている。
晩年と最期[編集]
元仁元年(1224年)、第2代執権であった弟の義時が急死する。すると義時の後妻であった伊賀の方と伊賀氏一族が陰謀を企てたとして処分し(伊賀氏の変)、第3代執権には義時の長男・北条泰時を就任させた。同時に政子は弟の北条時房を連署に就任させて泰時の後見役とし、執権政治体制の確立に努めている。ただし、伊賀氏の変は政子による自作自演説もある。頼朝が死んで既に25年も経っており、血筋的に既にかなり関係者がいなくなっていたことから、自らの地位と権力を保持するために行った粛清とする説もあるとされている。
嘉禄元年(1225年)7月11日に死去した。68歳没。
人物像[編集]
さらに政子は政治家としては一流の人物と評価されている。ただしそのために実家の北条一族の政治権力掌握のため、2人の息子を犠牲にしたことより「悪女伝説」が残されることになった。ただし近年発見された晩年の政子直筆の手紙に「我が子に先立たれるほど悲しいことは無い」とあり、ひとりの母親としてやはり我が子の死は辛かったことがうかがえる。
また、悪女や嫉妬深い女性としての逸話が多い政子だが、一方で源義経の愛妾・静御前が鶴岡八幡宮で義経を慕う舞を披露したことに対してこれを賞し、頼朝の怒りをもとりなした話もあり、必ずしも悪女というだけの女性では無かったようである。実はかなりの美女で、美男の頼朝の関係は良好であり、二人は日本史きってのおしどり夫婦であったと伝えられている。
関連作品[編集]
- 小説
- 『北条政子』(永井路子、角川文庫/文春文庫)- NETのドラマ『北条政子』、大河ドラマ『草燃える』の原作。
- 『炎環』(永井路子、光風社 1964年 のち文春文庫)- 大河ドラマ『草燃える』の原作。
- 『尼将軍 北条政子』(桜田晋也、1991年角川書店)
- 『龍になった女―北条政子の真実―』(高瀬千図、2015年文蔵BOOKS)ASIN: B0187NNEWC
- テレビドラマ
- マンガ